今日投稿すれば215日連続!すてきです!とのこと

『ご自由にお書きください』とのこと。ありがとう。
 読書感想文だ。
『ルバーイヤート』オマル・ハイヤーム、岡田恵美子編訳(平凡社ライブラリー)と『ルバイヤート オウマ・カイヤム四行詩集』エドワード・フィッツジェラルド、井田俊隆訳(南雲堂)を取り上げる。
 両者とも同じ中世ペルシア詩人の詩がテーマの本なので、二つを比べようと思ったのだが、そっくりそのまま同じではないことに気付き、方針を変更する。一つ一つの詩を比較検討するのではなく、別の作品とみなし、それぞれを味わうのだ。その方が手間が掛からないという事情もある。
 平凡社ライブラリーの『ルバーイヤート』は1951年にパリでガス自殺したイラン人小説家サーデグ・ヘダーヤトの著書『ハイヤームの四行詩集』が元になっている。
 ↓(108ページ、第六章『なるようになるさ』プロローグより引用)
 ヘダーヤトはそれまで刊行されていたハイヤームの詩から、後世の詩人が加えたと思われるものを除外して、真正のハイヤーム作と見なしうる一四三篇をその『四行詩集』にいれた。(後略)
 ↑
 略してしまったが、この後に綴られるヘダーヤトの生涯が興味深い。近代化政策を進めるイランがヨーロッパに派遣した留学生という経歴から我が国の夏目漱石や森鴎外を連想した。明治の文豪ツートップと比べ、その最期が悲劇的なものになってしまったことは、イスラム近代知識人の抱いた苦悩がより根深いものであった現れかも、と思った。それは恐らく今日まで続いている。勿論、最期の違いは個人の性格や境遇に起因するものとも思われる。太宰治も有島武郎も川端康成も自殺した(最後の一人はガス自殺だ)。
 それはそれとして『ルバーイヤート』だ。詩の内容によって八つに分類された各章の最初に記されたプロローグは本書の魅力の一つ。それを書いているのがイランに留学歴のある編訳者である。そこに綴られたイラン人の生活が勉強になった。春先には砂漠へ「遠足」し皆で飲食するとか、日本へ来た労働者たちが「日本で一番有名な詩人の墓はどこにありますか?」と編訳者に尋ねたエピソード(モスクなどが無いので、せめて詩人の墓を詣でたいというのが理由)を知ると、縁もゆかりもない国なのに非常に親近感が湧いてくる。詩人の墓参りをしてみたい気分にすらなった。そんなの初めてだ。
 詩の訳文は平易で読みやすい。私が最初に読んだ四行詩集は岩波文庫だったと思うが、あれもこんな感じだった気がする(詳しいところは忘れた)。
 あとがきに記されたオマル・ハイヤームの生涯の最期が、これまた良い。数学者・天文学者そして詩人という三つの顔を持つ賢者の死に方は、こうでなければならないと思った。カッコイイにも程があるだろう、インテリめ。
 南雲堂の『ルバイヤート オウマ・カイヤム四行詩集』は、その元になっているのがエドワード・フィッツジェラルドの英訳本のようである。世界に『ルバイヤート』を広めたフィッツジェラルドを、これまで私はアメリカの『失われた世代』に属するフィッツジェラルドだと思い込んでいたが、あれとは別人であることがさっき分かった。調べるものだねえ、危うく恥をかくところだった(笑い)。しかしエドワード・フィッツジェラルドの日本語訳Wikipediaが無くて、どういう人物なのか分からない。何者なのだろう? 彼がペルシア語を習得した経緯やオマル・ハイヤームに着目した理由などの話を読みたい。
 二つの本には挿し絵がある。南雲堂の方はエドモンド・サリバンという人の作品が載っている。銅版画っぽいタッチで、どことなく昔懐かしいゲームブックのイラストを思い起こさせる。挿し絵の中にペルシアの文字ではなくアルファベットが書いてあって、エドモンド・サリバンはペルシア語ができないのだろうなと感じた。平凡社ライブラリーはチューリップを持った男と美少年っぽい二人組という、いかにも中世ペルシア風といった趣のある構図の挿し絵が多数掲載されていた。こういう絵画を見ると、偶像崇拝禁止とは何なのかという疑問が湧いてくる。戒律違反ではないのか? しかし、詩の中で飲酒しているし、この程度ならセーフなのだろう。
 本書はエドワード・フィッツジェラルドの作品が元となっているようで、サーデグ・ヘダーヤトの編集したものには載っていない詩が収録されている。その一つと私が思ったものを引用する。
 ↓(84ページ、四十番)
ご存じ 友だちよ、この家にこの家に大酒盛りして
私の再婚を祝ったのは もう久しい昔、
――年老いた石女(うまずめ)の理性を 追いかえし
ぶどう樹の娘を 床に迎えて。
 ↑
 これを読んで引っ掛かった。矛盾を感じたのだ。たとえ理性を忘れる比喩だとしてもハイヤームは、そんなことをしないと私は思った。ヘダーヤトの著作が元になった平凡社ライブラリーに、こんな詩が載っている。
 ↓(92ページ、49番)
地表の土砂のひとつひとつの粒子が、
かつては、輝く陽の君の頬、金星の美女のひたいであった。
袖にかかる砂塵さじんをやさしく払うがよい、
それもまた、はかないひとの頬であった。
 ↑
 土砂の粒子や砂埃に儚い女性の影を見出す男が、かつては、ぶどう樹の娘のようだった(かもしれない)年老いた石女を冷酷に追い返すのかな……と疑問に思ったのだ。
 ただし、これは私の誤読の恐れはある。
 私の再婚を祝ったのは、もう久しい昔なのだが、このときに古女房を追い払って床に迎えた娘が年老いて石女になってしまった――というのが正しい読み方であるのかもしれない。
 この皮肉な展開なら、可能性がなくはない。しかしオマル・ハイヤームの感性とは異なる。酒と美女の詩ばかり書く彼は享楽的な人物だと勘違いされがちだが、優れた観察眼を持つ第一級の自然科学者というのが彼の本質だ。美女もいつかは老婆となり、やがて土に還る。その冷たい現実を全知全能の神が用意した理由を知りたくて苦悩し、それでも答えが得られないから酒を飲んで苦しみを癒しているわけで、そういった理性的な科学者詩人は陳腐なショートショートみたいなオチを書かないと思う。
 この詩を削除したサーデグ・ヘダーヤトの判断を私は支持する。
 サーデグ・ヘダーヤトの作品が読みたくなった。

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