「いっすーくるま」です。単車の事故編③

ある日、私は、深い深い眠りから目を覚ましました。何故、目を開けたのか?それは、体中に痛みを感じたからです。私は、仰向けに寝たままの状態で、身動きなど取れませんでした。そのまま両手を見ると、左手には包帯がグルグルと巻かれて全く指など見えませんでした。右手にも、やはり包帯が巻かれてましたが、5本の指はしっかりと付いてました。ここで、私は、全身の痛みを我慢しながら、もしかしたら左手の指が全て無くなったかと思い右手の僅かに動く指で、左手の包帯を解き始めたのです。包帯が外された時、左手は、真っ黒でグローブみたいに腫れ上がって、手の甲には20センチほど切り裂けた傷が、糸でしっかりと縫い合わされてました。左手に5本の指があることを確認した私は、安心したのか、そのまま左手の包帯を巻き直すこともせずに、また、寝入ってしまったのです。左手の傷からは、まだ、若干の出血がありました。
事故の知らせを聞き、いち早く病院へ駆けつけていた叔母夫婦が、私の左手の包帯が外され、ベッドのシーツが、出血で赤く染まっていることに気が付くと、慌てて包帯を巻き直したそうです。それから、どれくらい時間が流れたかは、わかりませんが、やっと私は、ハッキリと目を覚ましたのです。すると、父親の顔が目に映りました。私は、自然と父親へ問いかけていました。
「オヤジさん、何で、こんな所に居るのさ?」
「おまえ、交通事故やったんだよ」
「えっ!交通事故?」
こんなやり取りをしながら、私は、全身に痛みを感じずには居られなかったのです。両手と右足は、心臓の鼓動に合わせるように、ズキズキっと激痛が走ってました。さらに、全身は、擦り傷でヒリヒリと熱かったのです。父親に交通事故をやったと言われても、私の記憶は、寮に帰るためにオートバイの後部座席に跨って、エンジン音と共に走り出したまででした。衝突した覚えなど全くありません。
「オヤジさん、一体どんな交通事故やったのよ?」
その交通事故とは、始め警察には死亡事故扱いされたようでした。バイクは、逗子海岸を左手に見ながら、江の島へ向かって湘南道路を走って行ったそうです。まず、1つ目の長いトンネルの中を、120キロで暴走し、そのままトンネルから飛び出しました。そして、緩やかな左カーブへ差し掛かった時、オートバイは、右へ膨らみセンターラインを越え対向車線へと飛び出したらしいのです。対向車が3台来たのですが、2台目と私たちのオートバイは、正面衝突してしまったのです。オートバイの前輪は、三日月みたいな形に変形していました。後部座席の私は、18.5メートル空中を飛んで、道路に叩きつけられたのです。運転者は、12メートル飛んでアスファルトを血で染めました。時は、8月13日のお盆です。休暇を取ってる医者も多い中、私たちは、病院を転々しながら応急処置を受け、最終的に運転手は、2時間かかって大船の病院へ、私は、2時間半かかって戸塚の病院へと運ばれたのでした。ここで、皆さんは、私たちの交通事故が、物凄く大きな事故で2人とも即死してもおかしくないと思われたかもしれません。私たちの怪我については、あとで書きますが、実は、この交通事故には、時が過ぎるに従って何故?という所が一杯あるのです。まず、始めに「早く、帰ってシャワーを浴びようぜ」と寮へ帰ったはずなのに、逗子海岸から江の島へ向かっているのです。逗子海岸から葉山へ向かわなければ帰れません。これは、反対方向なのです。そして、湘南道路の始めの長いトンネルを抜けると、緩やかに左へ曲がっていますが、曲がり切れずに対向車へ飛び出すようなカーブでもないのです。さらに、驚いたのは、私たちがセンターラインを越え、対向車線へ膨らんだ方角と同じ方向の何キロも先には、2日前に冷やかしに行った小坪トンネルが存在していました。私たちは、8月13日のお盆に小坪トンネルに導かれたように、交通事故に出合ったのでしょうか?だって、私と友人には、全く記憶が無いのですから・・・・今日は、この辺で終了します。

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