「いっすーくるま」です。単車の事故編⑤

私は、寮へ帰ったはずだったのに、目を覚ましてみると全く信じられない現実に変化して居りました。
まずは、全身に感じる激痛を我慢することから始まり、自ら何も出来ない事を知り、食事も排尿・排便も人の手を借りて行ったのです。最初は、恥ずかしさと惨めさ、情けなさを感じてましたが、1つ1つを受け入れていった時、やっと自分自身の立場を認められるようになりました。そこで初めて、「何故?こんな現実になったのか?」を考えるようになったのです。
(自分は、酔ってる友人が、オートバイに乗ったら、絶対危険であると止めに行ったはずだった)
(下まで駆け下り、友人へ酔って乗ったら絶対事故るとも言ったはずだった)
(何故?一緒に乗ってしまったのか?本当に事故ると思っていたのか?)
(そう思って居れば、絶対に止めるはずだ。自分も酔った勢いで、夜の湘南道路を走りたいと思ったか?)
(・・・・・・・かもしれない。だから、一緒に乗って逗子海岸まで行ってる。一緒に乗った俺の責任だ。)
ここまで考えた時、今の厳しい現実は、友人にも、自分にも、そして、この2人に全ての原因があると感じたのです。気持ちとは、正反対の現実。これを運命と言うのでしょうか。
こんな時、私の事故の知らせを聞いた沢山の友人・知人が、戸塚の病院へ見舞に来てくれました。特に週末になると、見舞客が重なり合う事もあり、病室は盛況でしたと表現したいと思います。この時、私が実感した事は、こんな沢山の方々が心配、応援してくれていることへの大きな感謝でした。もしかしたら逆境の経験の無かった人は、心の底からの感謝が出来ないかもしれませんね。
母親は、地元で総合病院へ勤務していました。看護師ではありません。実は、入院患者の食事の調理をしていたのです。私の事故で付き添いをすることになり病院勤務を休んでいました。こんな事情もあり、命を救ってくれた戸塚の病院でしたが、地元の病院へ転院を相談したのです。結果、1週間後の転院となりました。
いよいよ明日へと転院が近づいた時、次の病院への資料として再度、レントゲンが撮影されました。
やはりベッドからストレッチャーへの移動には、「いてぇーいてぇー」の悲鳴でした。撮影終了後ストレッチャーに寝ている私は、やっと部屋に戻れると思ってました。ところが、手術室へと運ばれてしまったのです。何故?手術室に居るのか考えていると、担当医が姿を見せました。そして、こんなふうに言ったのです。
「大腿骨も骨折してましたので、これより馬蹄けん引術を行います」
私は、何を言ってるのか良く分かりませんでしたが、大腿骨骨折の新事実を知ったのです。という事は、全部で11カ所の骨折だったのです。明日、転院なんか出来ないと思った瞬間に愕然としてしまいました。
ストレッチャーから手術台への移動で「いてぇー」の悲鳴。手術台へ仰向けに寝かされると、右の太腿へ麻酔の注射数本打たれました。麻酔が効いたか確認されると直径2ミリほどの金属棒が、太腿右側の筋肉へ突き刺されたのです。局部麻酔です。「いてぇ―いてぇー」の大声を発してました。金属棒が奥へ奥へと突き進みます。すると、今度は、中にある大腿骨へ突き当たりました。コツコツと骨の位置を確認したかと思うと金属棒の手元の先がモーターらしき機械へ取り付けられたようです。スイッチが入った瞬間、ウイーンという音と共に、回転を始めたのです。大腿骨をドリルのように突き進んで行きます。骨を突き抜けると回転は止まりましたが、内側の筋肉を突き進みました。「いてぇーいてぇー」の悲鳴が終わると、私は、首を上げて右足太腿を見たのですが、金属棒が太腿を貫通しておりました。(まいった、ちくしょう!)心の叫びです。ストレッチャーで病室へ向かう時も、金属棒は、太腿を貫通したままの状態でした。私も看護師さんも、一言も発しません。部屋へ帰ると目を丸くして驚いたのは母親でした。ベッドへ移されると太腿両サイドへ突き出ている金属棒へ馬蹄、つまりUの字の金属が取り付けられました。余ってる金属棒は、切り取られます。そして、Uの字の先端に紐が結び付けられると、その紐を今度は、ベッドの足の方の上にある滑車へ通して床へと垂れ下げます。この垂れ下がった紐へ3キロ、5キロと重りを付けると、グウーと金属棒が引っ張られると同時に大腿骨も引かれて正常な状態になるのです。大腿内の全てに圧迫が掛り、また、心臓の鼓動と共に起きる激痛に耐えるしかなかったのです。転院は、1週間延期となりました。 この辺で・

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