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うつという契機

父はアイデンティティがまだ見つかっていない、私はそう思っていますし、それは実際にそうなのです。しかし父のアイデンティティが不足している、その内実をよくよく見ていきますと、実はこれでもかというほどアイデンティティを塗り固めている、ということが見えてくるのです。

おなじみ私の尊敬する精神科医の泉谷閑示先生は、人間を「頭」と「心」に分けて考えますが、頭は人間の欲望であり、心は大自然由来の感情(に近い)ものだと言います。

そして世の中で生産性を発揮していると思われる大人たちは、皆揃ってこの「心」の大自然由来の感情に"任せている"、ところがあります。つまりは自然発生的なその場で起きる「物語」に信頼を置いている、委ねているのです。

しかし逆に毒親、非生産性と言える人たちはとりわけ揃ってこの「頭」の部分が大きいです。頭の本質は計算、コンピュータ的数値化であります。つまりはコントロールだ、ということです。そしてこれが私の父親はとても強い。

しかしこの頭は近代にその流れが強まってきたようで、もとは人間は心を大事にしていました。そして心の方が遥かに信頼に足りる、人間らしさを実現したものなのです。

しかし物質的な豊穣がもたらされた近代の経済の発展とともに、次第に人間の思い上がりが強くなり、人は自分で何もかもをコントロールできる、と思い上がるようになりました。

仏教ではその求道の中で特に「慢心」に気をつけるべきだ、と言われるのですが、これは禁欲主義を加速させるものではありません。現にうつの過程にある方達に慢心に気をつけよ、というのは御法度であり、なぜならうつの人たちはこれでもかというほど禁欲をし抜いた人たちだからです。つまり最も慢心していなかったのはうつになった人たちだったのです。

そして慢心の本質はこの頭の思い上がりによってすべてをコントロールできる、と思っているところにあるのです。しかしながら絶望的にコントロールできないことが一つだけあります。それが自身の死です。つまりいくら数値的に、概論的に人生をコントロールしようと、死ぬ時にはすべてが裏切られる、のです。故に毒親と非生産性の人間に満足して死を終える人間はいません。生憎この手の人たちは自ら「自分は幸せものである」ということを周りに豪語したりするものなのですが、本当に死ねる人は本当に死ねるのですから、自分は死ねる!とは言いません。つまり満足する人ほど静かに死ぬということです。

これも泉谷先生の言葉になりますが、「人間、もっとゆっっくり生きたらいいんじゃないでしょうか」とのことを言われています。つまりコントロール由来の頭的思考でいくら生き急いでも、その生き急いだ反面として裏切りに遭うのですから、できることは「今ここ」をゆっくりと生きることであり、そしてそれは日々を味わいながら生きるということです。

自分がやりたいこと、というのは本来とても理にかなったもので、やりたいことは幸福に結びつくからやりたいわけです。それを心の底では分かっている、いや「知らされている」ので、心は対象を見た時ワクワクするのです。

しかしこの現代では利他(りた)、や人様のために、などという道徳が振りまかれていて、これはいわゆる人間を一時的に社会適合させるための罠のようなものです。

つまり社会適合とは感覚が"麻痺"した状態であり、それは頭由来の思考で、「こうあるべき」という命令に従っている、ということです。これが社会適合の実態なのです。去勢されている、と言ってもいいと思います。

しかしよくよくここを見ていきますと、その社会適合に貶める罠である言葉たちには「なんら実体がない」ことが分かってきます。つまりは真に自身というものに回帰し、心で生きるようになった人間が自ら汲み取った思考がないので、去勢された人間の"自分騙し"が加速度的に広がったのがこの社会適合、世間(せけん)というものなのです。

つまりうつの理由、うつの意義は、「そこに自分をかける否、原理的にかけられないものに脅迫されている」ということであることが分かります。

そもそも社会適合がすべて思考停止の産物なのですから、そこにはそれ以上の深みがないわけです。深みがないところに自分の人生をかけろと言われても、人間大自然の心はそれを見抜いているわけですから、必然的に心身症が起きる、ということです。

というならばこうも見て取れます。社会不適合とりわけ強いうつに陥った人間は、現に社会適合に向かって歩いている去勢される、「されていく」人間たちよりも、先を歩いている、ということです。

つまり認識が逆なのです。社会不適合は社会不適合故に「あいつは終わった」と思われやすいですが、(そんなことを思う人はだいたい薄っぺらな人間だと私は痛烈に批判します)実はあいつが終わったのではなくて、「あなたたちが終わってるから私は避難しました」ということなのです。

つまり不適合は遅れている、のではなくて、進んでいる、のです。

故にこれをわかる人から見れば、不適合は何ら不幸でありません。むしろ祝福することなのです。

泉谷先生は言います。「この大通り(おおどおり)からはずれたことにおめでとう」

また泉谷先生が一貫して言われることは、「才能があるからうつになる」ということです。このうつを才能とまで言う視点は実に痛快なものがあります。

大通りにいれば安全ですから、何も考えなくてもいいかもしれません。そこには社会の出した「規範」がありますから、それに従っていればいい。しかしその規範自体が、すべて主体性のない人間の思考停止の自己欺瞞が、加速度的に膨張したものだとすれば、その行き着く先は虚無であることに間違いはありません。

うつを治癒した人は、何がしかの点において創造的に抜け出ているものだ、と言われます。つまりその創造性はどこから来るのかといいますと、その社会の軽薄さに行き詰まり、それを見抜き、喝破したところから来る人間洞察と、素晴らしい懐疑的精神からくるのです。ここが本当の意味での「頭のよさ」と言われるものなのです。

つまりは頭のよさは勉強ができるとか、人より早く業務処理ができる、ということではなく、懐疑的精神を持って主体を獲得している、というところにあるのです。ここに抜け出すために、社会不適合が起きる、というわけです。

このようにその仕組みを理解してしまえば、実に簡単なことなのです。しかし実に簡単ではありますが、分かるまでが難しいのです。故にここを伴走してくれる人たちがカウンセラー、精神科医、と言われる人たちなのです。つまりはカウンセラーと精神科医自体が一つこの世の仕組みから"解脱"していることが必要であり、社会適合的価値観に現時点で捉われている人は自分が捉われている手前、原理的にクライアントの悩みを扱えないのです。

故にここが精神科にかかっても長年うつが治らない、また、「壁と話しているようだった」「ちっとも悩みの本質を理解してくれない」という薬の自動販売機という言葉が流布される原点になるのです。

浄土真宗ではその教えの本質を難信易行道(なんしんいぎょうどう)と言われ、これはつまり信じるまでがとても難しいが、一度わかってしまえばこれほど分かりやすいものはない、という意味合いになります。つまり一度わかってしまえば、現に私はこれをほぼなんの努力もなしに書いていますが、スラスラ書けるということです。

またそして、利他(りた)人様のために、という道徳規範を先ほど述べましたが、これはつまるところ禁欲を課すものであり、必然的にもしその相手が"望ましい対応をくれなかった場合は、必ず恨みとなります"。

つまり以前私は「彼女と子どもの諫言を許すことができないのは、あなたが我慢して働いているからだ」ということを述べましたが、この我慢して働く、ということが社会適合そのものであり、神経症性の途上、完全なる去勢が済まされた状態なのです。

故に毒親が毒とならず、老害が害とならないのは、「その仕事が楽しいこと」であり、そしてそれは必然的にその主体が自発的であること、が求められるわけです。やりたくてやっているんだから、そこに見返りは求めないわけです。やりたくないことをやらされているから、仮に人が感謝してくれなかった場合、「誰のために稼いでやっているんだ」という言葉が出るのです。

この主体性の回復がうつの意義になるわけですから、大いに悩めばいいのだ、ということになります。

私の尊敬する経営者の松下幸之助は、「悩みは薪である」という発言をしていますが、これは実に悩みそのものを生きがいとまで肯定した、人間としての尊厳を理解している言葉です。

また松下幸之助は別の場所では「人間は王者たる素質がある」というような発言をされており、これは悩みを生きることそのものと捉えたからこそ、そこにおのずと自己信頼が生まれ、堂々人生を生きている、この姿だと思われるのです。

よくうつの人は「普段考えないことを考えるようになった」と言いますが、そしてその人はそんな自分がおかしいのではないか、と思っているものですが、私たちから言わせるとその悩みはこの世を生き抜いたからこそ起きた悩みであり、一つの疑問であり、むしろそれを感じることの方が「生きている」と言えることなのです。

社会適合で去勢されている以上は、生きる意味とは何か、人間とは何か、生と死とは、人間の尊厳とは、ということを考えなくてもいいかもしれませんが、もともとは人間は本来的にそういう素質を持っているものですから、逆にそれを考えない去勢状態が不自然、となるわけです。

故にここが、悩む人は才能がある、という力強い言葉でもって鼓舞されるうつの利点なのです。

このようなことをぜひ、うつや社会不適合で悩み方々には知っていただきたいと思います。うつは一つの契機であり、その先には頭では想像のできない奥行きと、不思議を含んだ世界が待っています。うつは「期間限定」だったのです。

一つこれはすべてをわかった上で自慢になりますが、私は22歳で大学生をしています。社会不適合に悩み、遅れて今年大学一年生になったのです。大学一年生がこれらのことを言うのですから、もう少し社会には頑張ってほしく思います。

無論、この頑張れという言葉も、うつに悩む人のみに受け取られるという性質を持つものなのですが。

朝早く起きましょう、規則正しい生活を、昼間は勤勉に働きましょう、それらの実態を現に私は夜ふかしして書いているのです。

悩みの先の景色を、私たちと一緒に見ていきましょう。

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