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その美しい季節を眺めたかい

例えば夏目漱石が個人主義を謳ってから即天去私を唱えたように、一つのノイローゼを超えて生の感慨を取り返した私という一個人は、自然を感受しその痛烈な懐かしさに帰命することを、心が震えるほどの気恥ずかしさをもってその鮮やかな情緒に恋をするのである。

またこれがとりわけ世間的に言う若者、のうちに経験ができたことは、ひとえに私が社会不適合に長年悩んだからこそで(といっても10年ほどではあるが)、それまで落ちこぼれていた自分がああなんとも世間はその無闇な滝壺に落ちると言うのに、自身だけが明朗にその生き甲斐というものを知らされて、極悪最下、極善無上の幸せ者だという申しわけのない、本当に申しわけのない謝罪で一杯である。

私が通う大学という社会適合的機関にはたくさんの鮮やかな女の子たちがいるが、そんな彼女たちを前にすると私はとても不甲斐なく、なんだか生きる意味がないように思ってしまうのだが、というのも金もなく、身なりや体裁にもウブで、本当は社会にもあまり興味がないのであることを隠して嘘をついて社会に出ているのが私であるから、こんな生きる意味のない私がそんな立派な社会適合的機関に入って、場違い場違い、私はこんなところにいれる立派な人間ではない、といつも思うのである。

それが幸いして自分の本分である創作に精を出したもので、大学での単位はわずか私が楽しいと思ったあの体を動かす若者の虚栄の蔓延る授業しか取れていなく、父親に出してもらっている前期学費の25万円分を見かけ上空費したような雰囲気を露呈している。実際は違うのだが。

言葉が複雑にこのように簡単な言葉を使わないで書く随筆のようなものは私にとっては至極楽なのであり、というのもただ私の思案をそこにそのままぶちまければいいだけであるので(無論それができないから世の女の子は天才だ天才だと言ってくれるわけだが)、こんなもので例えば賞の入賞だとか国民の目につくような社会的評価を受けるのだとしたら、私はその人間存在の生命の尊厳、その懐の深さと内奥、本質的な始原の鼓動がまったくもって疲弊して廃れ果てたことを悲しいかなただそれに対照して浮き上がる私の生の紅潮にごめん!という気持ちで涙を流すのである。

すなわち男達、君、立派な上司である君。

君たちはその奥さんと最近美しい季節を眺めたかい?

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