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どこへ行く

ばあちゃんは「お前は何になりたいのか」ということをことさらに聞く。「お前は何になりたいのか」「何者になりたいのか」。私は過去ばあちゃんとじいちゃんだけは愛せると言った。それはなぜならばあちゃんとじいちゃんは人生の悲運を経験してきたので、一つの諦念がついており、そこから謙虚さが生じている、と分析したからだ。しかしばあちゃんは諦念を持っていなかった。

ばあちゃんは自分は勉強をまともにできなかったから、大学に行けることはとても贅沢なことなんだよ、といつも言う。これはもちろん、その通りであるはずだし、一つの人生経験から出てくる言葉なのだろう。しかしその先の価値観を深掘りしてみると、ばあちゃんは「何者かになれ」「世俗的成功をすれ」と思っていることが垣間見える。そんなエゴイスティックな理想論が私の前に立ちはだかる時、これまでの70年の齢と悲運の真実性-それはつまり自分を内面的に改革しなくてはならないと知らせてくれるのが不幸だったということ-が、なんら機能しなかったのかということを目撃し、愕然たる思いになるのだ。

別に特にだからといってこちらがそれを迫害してやろうとは思わない。ただ関わらないでほしい、このとこだけを思っている。

父は今も過去の夢を追っている。自分の自己実現ができなかったので、他者に自分の夢の陶酔として、願望を託したのだ。それによって私は育たず(自分の可能性の芽を摘まれるわけだから)、不登校になったのだ。そうして父は言った、「お前はそんなんだから、学校に行けないのだ。」

世の中の人たちは何を考えているのだろう。なぜそれほどまでに不感でいられるのだろう。母はその日の生活が担保されるかどうかだけを考えているし、父は過去の夢を追っている。ばあちゃんは過去の夢を追っていて、父も過去の夢を追っているから、ここに世代間伝播が黙認される。非世代性は伝播する。世代性とはおそらく、人の自尊心を促進することである。つまり自分の愛を確立している人間が、他者と話すことによってもたらされる社会の変化、対話する人間の内面的な変革である。自分の愛を確立している人間のみが、人の自尊心を促進し、人の心を開発することができるだろう。そうしてはじめて世代性、ということができるのだと思う。

自分に愛を確立していない人は過去の夢に生きる。そうしてそのもとで育つ子どもが"尊重"をされることを知らなかったので、その子どもも自己実現ができず、過去の夢に生きる。こうして非世代性の伝播は完成する。毒親の世代間伝播の過程である。

叔母はよく「もっとバイトして金稼げ」と言う。あるいは「もっと真面目に勉強しろ」と言う。どうやら私のことは何もしないでぷらぷらしている半端者、に見えるらしい。でもどうかな、勉強しろ、真面目にやれ、これを語るのは、いつだって真面目にやったことを知らない人間たちだったのである。勉強をし抜いた人は、他者に勉強を強要しない。つまりはばあちゃんも、父親も、叔母も、自分でやったことがないから「こうすれ、ああすれ」と言うのだ。どうかな、この元で育つ子どもが健全に学校生活を送れると思うかい。

一流と人並みの差は、本質的要素が彼に備わっているかどうかということだと思うが、それはただ世間の流れに従って、他に価値判断を委ねているような状態ではいっこうに自身の思想形成はされないだろう。安全だから、みんなもやっているから、それをやる彼らの心には、彼らが本当の意味で望んでいるはずの主体性がどこにもない。

自分は人並みに詩作をしていたが、それは毎回犯罪を犯している、という気持ちでいつも書いていた。でもここにきて思うのは、高まるのは、自分の詩作はあながち間違っていなかったのではないか、ということの確信の念である。どうやら自分は間違っている、と思って書いていたのものは、自分の方が正しかったと、ますます知らされてくるのだ。

おそらくこれからの社会は、サブカルチャーがカルチャーになり、精神障害が常態化する。機能不全は機能不全と呼ばれなくなるのかもしれない。それは機能不全が解消されたのではない。機能不全が常態化したことの証左である。

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