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[創作]自分に対しての救い

それからその男は、それまでにない感情を吐露した。

「俺はずっと、子どもの頃から、いや物心ついた、そして洗脳された子どもから大人になった時期、大人になりかけた時期、から、ずっと理想の世界を目指してきた。ずっとこの世の間違っている点と、それを完成させた理想の世界を見、そして理想の世界に生きることを選んできた。あるいはその理想の世界で生きている、と信じ込んでいた。

だがしかし、理想の世界に生きる、ということこそ俺にとっての地獄だった。理想の世界に生き、他者を軽蔑し、そんな中で「こんなことも知っている私」という思弁に偏った生き方をしている、その現在時点のそのままで地獄だったのだ。

しかしそれを打ち破ったのは、不躾な態度を取る客と、まったく人を信じない中学生だった。そして、人格形成には一つも寄与しないままで金を稼いでいる仕事、だった。

私は人格形成をその主眼に生きる、否私は人格形成をするために生きる、などと言い聞かせて理想思弁の世界に生きていたのだが、

ここにきてこのクソッタレた娑婆が、私を理想、真美、善から、偏屈であり欺瞞であり怠惰な、この本当の世界へと戻してくれた。

それによって私の心は安定した。これまでになく安定した。

私は何か勘違いをしていた、私の何かーそれは私の意思的な力量ーで心を制御できる、そう思い違いをしていた。しかしそうではなかった。私は完全に相手をナメていた。

相手は私の話などさらさら聞く気はないし、
相手は私に関心などさらさら寄せてはいなかった。

ああこの世界は自由だ!

私は誰からも尊敬されることもなく、私は誰からも頼りにされることはない。

繰り返しになるが、何度も繰り返すが、私にそれを教えてくれたのは、不躾な態度を取る客と、まったく人を信じない中学生と、そして、人格形成には一つも寄与しないままで金を稼いでいる仕事だった。

私のことなど彼らはどうでもいい!

私が何をしてようが彼らはどうでもいい!

私は自分に対しての救いをそこに見出したのだ。」

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参考:ヘルマンヘッセ「荒野のおおかみ」

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