ありがとうを無理に言うよりも、ありがとうを言えるものがなかったと知ることの方が大事。
一番不幸なことは、ありがとうと言えることをしてもらっていないのに、無理に感謝をしていること、だと思います。
現に精神病理に苦しむ青少年に対して、「親を大切にしましょう」と言うお説教は原理的にできないと思います。
だからこそ、世間では感謝というものが道徳のように叫ばれるけども、果たして本当に私は感謝をすることを、それ相応の愛を受けたのか、と自問することは無駄ではないと思います。
それに、感謝はしようとかしないとか考えるものではなく、気がついたら湧いてくるものです。
現にこの親に感謝すべきだろうか、しないべきだろうかなどと考えてる時点で、感謝は湧いていないと思われます。
感謝ができる人は自然に感謝ができます。
逆に親から感謝をされなかった子どもたちが、精神疾患を患っているケースを私は幾度と見てきました。
そんな彼らには道徳じみたお説教をしても、彼らの厭世観を強めるだけで、そこに何ら人生の喜びというダイナミックな感情に寄与するものではないと思います。
愛を受けて育ったものと、愛を受けずに育ったものの間では、あまりにも深い溝があるように思われます。
だからこそ本当の意味でそのような状況を変えることができるのは、「感謝ができないことは感謝できなくていいんだよ」と言える人なのではないでしょうか。
私はどうしても、親を大切にしようという道徳では、子どもたちの精神病は治らない気がするのです。
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