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40代の愛と取→10代の社会不適合障害.

私は仏教を学んでおりますが、その中に人間が生まれて死ぬまでにどのような行いをし、そしてどのように輪廻するのか、という広い視野でもってお釈迦様が説かれた教えがあります。

私が学んだ仏教の中では、愛と取という概念がありました。

愛は人に対し愛憎がうずまく時代で、恋に落ちたり、あるいは人を憎んだりする時期、

取は「もっともっと」と歯止めが効かなくなり、欲望に支配されたようなもっとも脂が乗った中年の時期、と説かれていました。

そしてそのような人間は「有」という来世に転生する業をつくり、

また同じように果てしなく生まれては死にを繰り返していく、と言った内容でした。

私はまだ死んでみていないので、その死後については分かりませんが、あるいは浄土真宗で言われるところの信心、には至っていませんので、正直に死後は分かりませんが、

しかしこの教えが示唆するものは、何となくですが感じ取ることができます。

愛と取(しゅ)に陥った人間に共通している一つのことは、「次世代を考えていない」というところにある気がします。

あるいは自分のことで精一杯、またはそもそも世代を超えた繋がりなんざ求めていない、自分さえよければそれでいい、

このような思いが強い人間です。

これは仏教観に基づく解釈にはなりますが、この愛と取の要素が強い人間に育てられた子どもは、決まって社会不適合障害に陥るのではないか、という気が、私の個人的な経験とこの時代から肌で感じる感覚において、しています。

私は過去の記事でこのような愛と取に至った人間の姿を"大人の弱さ"と言いましたが、

そこにあげた3つの要素としてこのような内容を挙げました。

利己的な姿勢
他者への不信
人生への慢心

これらの3つの指標です。

この中でも特筆すべきは3つ目の、
"人生への慢心"です。

私は個人的にはこの人生への慢心=仏教観で言われるとこの愛と取、という認識をしています。

私の尊敬する松下幸之助というパナソニックの創業者であり経営者であった人物がこのような言葉を残しています。

分からない人生を、分かったようなつもりで歩むことほど危険なことはない。

松下幸之助著「道をひらく」より

私たちはこの言葉の意味を、もう少し真剣に考えなくてはならないのではないでしょうか。

つまりここでいう(私の)愛と取とは、"分からないことを分かったつもりで生きている"状態だと断定するのです。

総じて、分からないことを分かったつもりで生きている親に育てられた子どもは、少なからずまともに健康な発育をしている例を、私は見たことがありません。

そして不運なことに、まあ当たり前なんですが、そういう親のもとで育った子どもは必ずと言っていいほどその「愛と取」の人生に突入します。

ここをぶち破るのが"自覚"だと思うのです。

先日友人と、天才と狂人の違いについて話していました。

これは特段大それた話ではなく、何の気無しにその会話と流れから議論になったわけです。

その中で「どうして同じく才能はあるのに、片方が天才となり片方が狂人となってしまうのかなぁ」と友人に問いかけたところ、

その友人は、

「その人には自覚と根拠がないんじゃないか。自分がとんでもない毒を持っていたとしても、それを自分で認識しているかいないか、の分かれ目が、天才と狂人の隔たりを生んでいるんじゃないか」と言いました。

私はなるほど、と思って、

まさにこれまで述べてきた愛と取の理論と同じように、

愛と取の人間は人生への慢心をしており、
人生への慢心とは"分からないことを分かったつもり"で生きていることであり、そして、
その自分が慢心に陥っている、との"自覚"がないということに繋がるのです。

"機能不全事故の戒めは、機能不全者には自認されない"

これは私が過去の記事で述べたことです。

もうだいたいお分かりになられるのではないでしょうか。

私が述べたこの指標は、一つのことをある一つの角度から述べたに過ぎません。

人生への慢心、これをじゃあ別の言い方にしろ、と言われたなら、

他者の痛みへの非共感、などと言い換えることもできます。

私は機能不全に生まれ落ちましたが(その証左として自分が機能不全に生まれ落ちたなんていうのはとんでもない甘えなんじゃないかという意識がある)、何とか命を繋ぎました。

ひどい時は身体が壊れてしまい、突発的に自殺未遂をしてしまったこともあります。

しかしながらそれは身体的な機能が崩壊し、自然に一週間以上一睡もできなくなった、ところから来ています。

その後何とか"自我"というものを取り返し、

19回の自殺苦がありましたが、

その19回は一度も自殺未遂をしていません。

幸いなことに高名な精神科医の方の本を手に入れることができ、

うつの構造と病理を理解して、うつを治癒することができましたが、

私が辿ったこの人生は、紛れもなく"危険な橋"だった、と言わざるを得ません。

そしてなぜこのような病理に、苦難に、迫害に自分の人生が見舞われたのかと問うてみると、

たくさんの原因はあるでしょうがその中でも一つ大きな原因を占めているのは、"毒親"だったのです。

何とか命を繋いだので、これは後世に残しておかなくてはならない、と思って、

私はいつもこのような病理について述べているのです。

そしてこの記事の結論ですが、私の精神的障害をある一面から見て、毒親の人生的な欠落から病理が生じている、という解釈をするのなら、

"自分が毒を持つことを自覚すること"が解決になる、と思っています。

でもこれはもう心配ないかもしれないですね。

なぜならこの記事を読んで心が動く人は、すでに自分の毒を認識し始めている、あるいはしっかりと自覚している人ですし、

そもそもこの記事を書いた理由が「毒を自覚している」方達が書くnoteに感動したから、です。

お釈迦様はこのように言われています。

犀(さい)の角のようにただ独り歩め

釈尊

私たちは生まれたときから1人だった、かもしれませんが、私はそこに絶望ではなく希望を見出します。

ただ1人であるからこそ、悠然と進もうと思うのです。

なにを"ただ独り歩む"のか、

それは自己認識をし、自分を知る、ことを独り歩む、ということです。

自分を知らない人間が"欠落"しているのなら、

自分を知って満たす、ことが解決策です。

じゃあそれはなにをして自分を知るのか、ということですが、それは過去の経験と素晴らしい先人たちの書物と他者の忠言から知る、と言えます。

このどれらをとっても、"次世代と繋がる"の代名詞のようなものです。

やはり私たちは他者のことを考え、前の世代から学び、次の世代へとバトンを渡していかなければならないようです。

そういう姿勢に目覚める人は、

やはり自分を知る・知った人たちなのでしょう。


私はここに強く、自戒します。

これからも頑張って生きていきます。

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