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幸せ

一つ分かったことは、みんな誰もが本当は心の底で平和を希求しているのではないか、ということでした。私の一つの記事で最も閲覧数がついたポツポツひとりごとシリーズは、シンプルに周りの社会に感謝を述べている記事だったのです。また、争いや諍いは、心の底で平和を希求しているからこそ起きているものだ、と理解しました。理解し直しました。おそらく本当はみな仲良く暮らせるなら暮らしたい。でもそれが現に叶わない環境が酷いから、あまりにも機能不全だから、そこで起きた決起が、世の中の悲惨事件なのだと思います。

友人がスプラトゥーン3のグループに誘ってくれました。友人の高校時代の同級生で構成された8人グループは、本当に和気藹々とやっているイメージでした。ただ私は最初緊張してしまうので、まずは聞き専(通話はしないでプレイだけする)でやらせてもらいました。それを許してくれる友人もありがたかったですし、何より私もそのグループに入れてもらえたことが、嬉しかったです。

ずっと1人でゲームをしていました。ずっと1人で戦っていました。しかし私はそのグループに入れてもらえて、ああそうか、こんなふうにみんなとわいわいゲームをする、そしてそれが何でもない日常である、みなやりたい時に集い、都合があれば抜けていく、そこに変な気負いはなく、一人一人が尊重され合っている。これが、私にも許されていたのか、と思いました。そうか私はただ、誰かとゲームがしたかっただけだったんだ、そう思いました。

ヒロアカのヴィランに死柄木弔というラスボスが出てきますが、その人がヒーロー側に「そうか友達がいなかったんだな」と言われた瞬間、激昂していたのがとても印象深いです。ただ友達がいなかった。案外世の中の悲惨事件の根源はそこだと思うのです。

友人は社会人ですが、夜はその集いを開いてみんなでスプラトゥーンをやっている。みんなも何か仕事をしていて、そして夜暇がある時にそこに集う。たぶんみんなは何の気なしの日常を送っていると思うんだけど、私はその一つの情景がどうもこの世の生きる意味に思えてなりません。ただただみんなとゲームがしたかった、本当にそれだけだったんですね。

この前5月に大学の友人とキャッチボールをしました。1人は野球経験者の体が大きな子で、もう1人は結構ひょろひょろな感じの未経験の子でした。でも面白かったのは未経験の子が誰よりも楽しんでやっていたことでした。変なぐねった投げ方をするんですけど、案外速い球が返ってくる。その相手が「ちょっと本気で投げてくれよ」と言うから、こちらが速い球を投げる。そしたら相手は痛がって、獲ったボールを見てケラケラ笑っている。ねえこれがさ、大学に来た意味だったのではないか?と私は本気で思いました。

現に私は大学の授業が面白くありません。たぶん理由は簡単で受け身だからです。授業は全部受け身。もちろんその内容に興味があればいいですが、私は大学卒業して大学の勉強が自分の人格形成に多大な影響を及ぼした、っていう人を大学卒業した友達パッと考えて5人いますけど、その5人ともそんなことを言ってたことがありません。し、実際に大学と仕事は別物だ、って思ってます。だけど私は大学の勉強が仕事に直結するくらいの影響を大学で受けなければ、絶対生産性は上がらないと思うんですよね。これは賛否両論あるでしょうけれど、やはり私が強調したいのは、大学はそこまでみんなの人生に寄与してない、ってことです。

あまりに自分は本気を出して記事を書いていますが、それが現にどういう風に波紋して、人に影響を与えているのか分かりません。それ故にスキとしてだけ評価はもらうけれど、自分のやっていることが果たして結果を出しているのかどうかわからず、そのことだけに捉われて自暴自棄になってくることもありました。そんな中大学をサボってカラオケに行った日、電車を降りた小さな駅の小さな改札口で駅員さんがとても心のこもったお礼を言っていました。私にも「いつもありがとうございます」と言ってくれて、私はとても元気が出ました。ああもしここに現に非常に苦しい何かのどん底、人間存在の闇に直面している人間がいたとしたら、何気ない店員さんの一言に、そのありがとうに人は簡単に救われてしまうのだな、ということを垣間見たのです。私はうつで大学をサボってカラオケに行きましたが、カラオケに行ってよかったなと心から思いました。(2回目)

この前はカラオケの受付のおばちゃんが「夏休みはどこかに行かれますか」と優しく聞いてくれて、どこに行くということではないですけれどアニメや映画にどっぷり浸かりたいと思っています、と答えたら、「楽しみましょう♪」と言ってくれたのが嬉しかったです。私はカラオケに行くたびにどこかで人の温かさに触れている気がします。

和気藹々とゲームのグループがある、小さな駅で丁寧なお礼をもらう、カラオケの受付で夏休みの楽しみを聞いてもらう、人生とはこういうことなんじゃないかなあと思うのです。

そう考えたら私たちはとても小さなことでもいいのですね。とても小さなことで大きな喜びを感じられるのですね。そして他者の笑顔が時として人を救うのですね。それが例えその本人が苦しんでいる笑顔だったとしても、その笑顔は素敵なのですね。そしてその笑顔を受け取った人物が、その人を救ってあげればいいのですね。

悪、というものをよく考えます。悪とは何か。これは難しいことかもしれませんけれど、私は案外簡単に考えます。それは人は本当の意味で悪になれた時、悪に染まった時、それは決して悪として発揮されないということです。少し詳しく説明すると、人間自分の欲、というものを大切にしてみてほしいのです。だってあれがしたいこれがしたいって、生きることそのものじゃないですか。つまり私は人の純粋な、シンプルな、幼子さながらの、あれがしたいこれがしたいを封じられると、人は人を殺したり貶したりするんだな、と思うのです。だから本当の意味で大切なのは、みんなの欲が満たされることなのです。

芸能人が浮気をしたりして、批判を喰らうことはよく見ることですが、じゃあ何でそんなに批判を喰らうのだろうと考えると、実はその批判をする大人が不倫を我慢してるから、だと思うんですよね。だからもしみんなが本当にやりたいような恋愛をできていたら、不倫の批判は起きないと思うんですよね。あるいはそもそも不倫が起きないと思うんですよね。

だから私はいろんな人に欲張っていこう!ということを言っています。人生一度きり。その人生で欲張らなければ、一体どうして安らかに死ねるというのでしょう。人間欲があるから人を殺すんじゃないんですね。人間欲を殺されるから、人を殺すんですね。私はそう思います。

明日はそのスプラトゥーンのグループに誘ってくれた友人とご飯を食べに行きます。町にあるオシャレなカフェに行きます。そこでのコーヒーも美味しいですし、その店員さんが私を常連として認識してくれているので、気を遣わないんですよね。ああ、できたらそこでバイトもしてみたいなぁ。私にはできるとは思っていなかったバイトも、知り合いのいる店ならできる気がします。じゃあこういうことですね、働くのが辛いのは、あまりにも周りが他者すぎるから、あまりにも周りの人が冷たいから、なんですね。じゃあもし温かな人間関係が一つでも職場にあったとしたら、もしかしたらその本人の何かの生きがいにすらなり得るのですね。こんな簡単なことだったのですね。

私は平和を望みます。これ以上人と殺し合いをしたくない。そしてまた平和とは、愛とは、ささやかな日常に宿る喜びそのものだと理解します。そのようなことは、例えその人の才能や能力に限らず、心がけ一つでできることだと思います。見栄えや体裁には才能が必要です。出世には才能が必要です。しかし幸福には、才能は必要ないと思います。

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