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父親がアイデンティティを捜している
私の父親は未だにアイデンティティを捜している、という気持ちを日に日に強くしているし、2年前から私の気持ちは変わっていない。
母親も同様、アイデンティティで留まっている気がする。
自分が見つかってない親に育てられた子は、自分を見つけることはできないだろう。
もし親が自分が見つかっていないのに、子どもが自分を見つけている、というような状況が認められれば、それはその子がとてつもない努力ととてつもない忍耐によって、自身の不足を解消したのであり、決してそこに親の愛があったから、ということにはなり得ない。
もし親に愛があるのなら、その子はその子自身を見つけるはずだ。
親が未だ、"自分とは一体何なんだろう"というアイデンティティ捜し、つまり自己愛形成途上にいるにあたっては、私の成す術はない。
1人暮らしするしかないだろう。
しかし私はまだ金銭的にも自立していないので、1人暮らしができないでいる。そうして私の未来がどん詰まっている。
このどん詰まりにいる子どもは、おそらく家庭で"努力"しかすることができないだろう。
努力することしかできない。ここを逆に思われる方も多いかもしれないが、
親が自身を見つけられないことによって自分の自己実現を子どもに転嫁している場合、その子どもにとっては圧力ともいうべき心の負担が発生する。
おそらくその圧力が様々な精神障害や病気の要因となっている場合が多いと思う。
そういう子は決まって努力しかできない。
本来家庭では"くつろぐ"ことが必要なのであるが、
親がくつろげていないのだから、子どもがくつろげる場は当然ないだろう。
そうして圧力鍋のように溜まった圧力は、その子自身を縛り、呪い、努力という形でその精神性が顕現する。
私の場合はそうである。
要するに、親が自身を見つけていない場合、その子どもは努力しか取る道はなくなる、ということだ。
そしてその努力がいずれ破綻し、心身の崩壊を迎えることによって、不登校となる。
私は不登校の時、夜中サバイバルゲームをしながらひたすら中毒になっていて、事あるたびに暴言を吐き散らしていた。
おそらくこれが"殺されてきた自分"である。
父親はもうすぐ齢が50になるが、まだアイデンティティは見つかっていない。
母親も同様だが、もはやアイデンティティを見つけようともしてないように見える。
本来ならば50代と言えば世代性に生きる年齢であり、
世代性とは次世代に価値を生む生き方である。
それは言い換えれば"先人の素晴らしい伝統を受け継いで、それを後世に譲り渡す"作業をする年代だと言える。
これができることによって、この壮年期の人たちは心身健康に生きることができると言われる。(参考:エリクソンの発達課題)
しかし、現代では50代になっても、まだ自分が見つかっていない、あるいは見つけようともしていない人が激増しているのではないかと推測する。
壮年期の課題は世代性であるが、
成人期の課題は親密性である。
親密性とは自分の人生を賭けれるほど、相手を信頼することができるという心理状態で、
およそ20代から40代の期間がこの成人期の期間と言われる。
つまりは他者を信じることであり、他者と共生することができる能力である。
ここが成人期の発達課題となる。
そしてそれは、もっというと、"相手にいくら自分を賭けても、自分を失わないほどに自分がしっかりしている"状態であるとエリクソンでは説明される。
つまりアイデンティティが見つかっていて、自己が確立されてはじめて、他者を信じることができる、他者を信じることができるから先人の素晴らしい文化を受け継ぐことができると、この論では言われる。
しかしこのアイデンティティが見つかっていない人物は、自分がはっきりしないのでまず他者を信じることができない。
つまりは上部だけのコミュニケーションになって、その深いところでは心が繋がっていない、という状態となる。
おそらく私の父もここに該当する。
それ故に私も自身のアイデンティティを掴みかねる節がある。もう幾度と自分を発見しようと試みてはきたが、いまだこれだというような自分のイメージ像は掴めていない。
つまりは親が自分のことを見つけていないのに、子どもが自分のことを見つけられるわけがないということだ。
しかし私はかといって、それで絶望だけの世界にはしたくはない。
私は私なりにその中でもアイデンティティを捜す方法を模索している。
まず第一に他者に悩みを話すこと。無理をする必要はないが自身の悩みを、素直な悩みを信頼できる仲間に話してみること、おそらくこれによって症状は緩和する。
私の父はいつも1人で物事を進める人だった。私の父が他者を頼っているなんてことを見たことはなかった。1人で何でもやる人だった。
しかし真の共生とは、他者を頼り、私が困っていたら他者が私を助け、他者が困っていたら他者を私が助ける、これが真の共生社会だと考察する。
もともと働くという言葉の語源も、はたを楽にする、というところから来ていると聞く。
はた、つまりは周りの苦しみを少しでいいから和らげようとしているのが社会であると聞く。
それなのに現代の人たちは1人でいることを選び、1人でものごとを全部やり、他者との関係は放棄し始めたように見える。これは私だけが言っていることではなく、高名な先人たちは皆口を揃えて言っていることである。
結局は1人で生きているように見える、というだけで実際は生きていけてないのである。
それがまだアイデンティティを捜しているということである。
しかしアイデンティティが見つかってない父に対して、あなたは今アイデンティティが見つかっていないですねと言ったところで、アイデンティティが見つかっていないこの者が、どうしてその真意に気づくことができるだろうか。
私の難点はそこにある。
しかし親のアイデンティティを促進する役割は、子どもの私にはない。そしてそれをする理由もない。
もしそんなことが起きれば本当の意味で真のアダルトチルドレンとなり、もはや親と子の立場が逆転している。
私はおそらく2年後あたりにはその逆転関係が確立するだろうと踏んでいる。
結局はこの親に対しては心のゆとりを生じさせるしか方法はないのだと思う。
心にゆとりが生じ、はじめて自分の存在について気づき、アイデンティティが見つかって、はじめて自分と世界を捉えることができ、そしてはじめて自身がやってきたことの矛盾性を理解できるのだと思う。
矛盾性を理解できるのは一貫性を持った人間のみだと思う。
アイデンティティを確立することによって得られる性質は"誠実"と言われる。
おそらくこの誠実は自分の人生に対する誠実さであり、人生の一貫性である。
この一貫性を親に持たせたいのだ。
しかしそれをやるのは子どもの私ではない。
このままでは必ずこの親は安心して死後を迎えることができない。
なぜなら自分が見つかっていない、つまりは自分を信じれない、そして世界を信じれない、世界を信じれないから、自分が生きた道がわからない、自分が辿った道筋が分からないから、自分の人生を肯定することができない、といった心理に陥ると思うからだ。
これは何も私が言っていることではなく、昔から言われてきた心理的危機である。
つまりは私は親にアイデンティティを自覚させ、そしてアイデンティティを自覚させた上で真に人生というものを生きさせ、人生を生きさせた上でこの親が安心して死後を迎えるというところまで、この親の心理を引っ張っていかなければならないのではないか、という危惧を持つ。
しかし何度も言っている通りそれをやるのは私ではなく、親自身だ。
つまり私が過去に書いた「この者は安心して死後を迎えることはできないだろう」という記事は、親の圧政のもとで苦しんでいる子どもに、あるいはその子の心に、主権を持たせようという試みである。
そうすることによって立場が一気に逆転する。
要はあなたにアイデンティティを築こうという試みである。
そしてまた一つ過去にあげたアイデンティティという曲の歌詞の最後に「形成逆転☆」とつけたのは、☆は曲調と私の想像しているポップな曲風に合わせたとして、形成逆転と書いているのは"私"に主権を持たせるためである。
つまりは結局は、
「誰か他人のために生きていて、自分に主権がないから、諸々のことにおいてここまで苦しみを感じているのではないのか?」
という青年期における苦悶であり、
科学的に見ても説明することができる心理的状況である。
おそらくアイデンティティを持っていない親に育てられて、機能不全の家庭で育って、その機能不全が"毒"と言われる性質やその本質は、"自立できない"ということにある。
それはなぜなら、親が自立できていないから子どもが自立できないという当たり前の事象、そしてさらに、自分が自立できないからその親のもとで生きていくしかないというどん詰まり的な家庭問題である。
だから機能不全を不全としない、
毒親を毒としない試みは、
おそらくその子どもが自立できる、ことさえすれば(それは心身的な苦痛を伴わないという意味で)、不全は不全とならないし、毒は毒とならないのではないかということだ。
自分で生きていく術を身につける。
おそらく親の役割はそこだ。
子どもがこの社会で生きていく術を身につけさせてやる、というところにある。
子どもの自立、それが親の保証するべき未来である。
しかし現代の多くの親は、もしかすると、生きる術を教えるんではなくて、"子どもを生きる術"としている人が多いのかもしれない。
それはもしかすると"子どもに育ててもらおうとする試み"かもしれない。
でも子どもは子どもなのであるから、親の親になる促進機能をおそらくだが補償することはできないと思う。
このあたりからメンタルや心身的な不安定が現代の病理としてもたらされているのかもしれない。
私はこれを現代の性(げんだいのさが)と呼んで久しくなるが、おそらくこれからはそういう家庭で育ってくる子どもが多くなると思う。
もはや私だけの力ではどうすることもできないくらいに多く。
しかしこうしてノートを書くに従って、悩んでいるのは私だけではないということに気づかせてもらった。
いやむしろ、ノートに書かれているたくさんの方々のエピソードに比べたら私の機能不全はまだマシなのではないかと思うほどだった。
この世の中には機能不全を抱えた人たちがたくさんいて、それぞれの人がそれぞれの場所でもがいているということが分かった、ということは私にとって一つ大きな生きる意味に繋がった。
あまりに暗く狭い世界に1人でいると、その世界は相対的・客観的な目で見ることができなくなって、とんでもない地獄と苦悶が私の目の前に立ちはだかるように見えてしまう。
しかしノートや情報発信によって、これは私だけではないということが分かると一つの連帯感というものを感じることができる。
おそらくこの連帯感というものが、後々次は私たちの発達という意味で大切になってくる。
機能不全も機能不全と言っていられる時間はそんなに多くはないと思う。
そうじゃないと、今度は私が機能不全を生んでしまう。
ここが難しいところで、私の疑問点でもある。
しかし私はこの機能不全と、それらを理解しようとした心理学概論、あるいはこの経験を、しっかりと自分の中で昇華させて一つのアイデンティティにしたいと思う。
そしていずれは私なりの形で社会と関わりたい。多分だがおそらく、私はもう社会と関わる力を有している。ただそれに気づいていないだけで。
このように私は、ずっと私の身の周りの心理分析を進めており、それはこれからも変わらない。
私は必ず、私自身の人生を掴み取りたい。
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