見出し画像

憧れのドライバー

約30年くらい前の話である。

家のパジェロ(写真)購入した近所の
三菱ディーラーで
パリダカ報告会なるものをやっていた。

当時は特にクロカン四駆ブームも手伝って
注目を集めたパリダカールラリー。
年の瀬にスタートし1月中旬にゴール。
NHKではその模様を連日速報で放映していた。
今では考えられない注目度合いだったと思う、

報告会はほぼ毎年のようにやっていたのではないだろうか。私はそれが毎年何よりの楽しみだった。
連日で県内の別のディーラーでも開催されたりして、
それを追いかけたこともあった。

パリダカの魅力は
ツール•ド•フランスと肩を並べる
世界一過酷なレース、冒険
クルマ、ヒトの強さや真価のようなものが
問われる
等、たくさんあるが、

「ウチのクルマと同じ車種に日本人が乗り、砂漠を激走している」

ということが私をパリダカの何よりの虜にした。

平成元年秋、初代スプリンターカリブに乗っていた
今は亡き父は、パジェロを選んだ。
4x4マガジンを首っ引きで読み込み、
ランクル60、デリカスターワゴン、ビッグホーン、チェロキーもカッコいいなぁ、なんて話していた記憶がある。

そんな時、クルマに全く興味がない亡き母が美容室で読んだ女性セブンか何かの記事で

「山口百恵ちゃんの義理のお兄さんが篠塚建次郎らしい」

という話題を持ち出したというエピソードがある。百恵ちゃんの旦那さんは三浦友和さん、そのお姉さんは篠塚さんの奥様だという。
割と百恵ちゃんが好きだった母は、それだけでパジェロが話題性があっていいのではないかと。
なんともミーハーな。

同時に父はパリダカで強さを示し出した三菱に興味津々。
ランクルは価格が高いのと、ビッグホーンはまだトラックの乗り味が気になったのとで最終的にスターワゴンとパジェロが残ったが、後者に決まった。
その白地に赤ラインの入ったパジェロロングはサイドにデカデカとラリーアート、リヤにパリダカステッカーを貼り、ディーゼルのガラガラ音と黒煙を漂わせながら(汗)10年の歳月を共にしたのだった。
父も私も、一番好きなクルマだったことは間違いない。

録画したパリダカのビデオはVHSが擦り減るほど何度も観た。

完全部隊で立ちはだかるプジョーやシトロエンチームは嫌いだったが、いすゞビッグホーンのチームアオヤギ、カミオン部門の日野レンジャーのチーム子連れ狼、親子出場のランクル80、もちろん70も。ロータスクラブの民間の整備工場から出場する無改造のパジェロ、忘れちゃならない増岡浩さんの三菱ワークスの市販車改造パジェロにエールを送り、何より我らが篠塚建次郎さんのプロトタイプのパジェロを一番熱い視線で応援した。

当時はホンダ全盛期のF1があったが、
T-SQUAREの格好いいCGのオープニングだけ見て、
古舘伊知郎が熱く実況するレースには
さほど熱中しない、という罰当たりな子供だった。

思えば、昔からクルマは好きだったが
フォーミラーカーよりフォードシエラや
R32が活躍する箱車を好んだのは

「レースで培った技術を市販車にフィードバックする」

ということに絶大な格好よさ、シブさを感じていたからのような気がする。

もっとも、プロトタイプ=試作というだけあって
パジェロとは名前だけで、全身カーボンケブラー製に
ビッグパワーのエンジンを載せた、フィードバックもへったくれもない市販車とは別物だったが。。

篠塚建次郎さんは勝手ながら私の憧れだった。
好きなことをストイックに継続すること
道を極め、生涯現役を貫くこと
キレた走りをするのにあの穏やかな口調や
優しい表情。
パリダカの経験、人生を描いた、小説も読ませていただき感動した。
そんなふうになりたいと思った。
そして、少しでも擦りでもできたらとクルマ業界に入ってなんとかやっている。

先日、間も無く取り壊す実家を片付けていたら
憧れの篠塚さんのサインとポロライド写真出てきた。
篠塚さんの腕には子供が抱っこされている。

それは小学1年生の私だった。

私は39歳になった。
篠塚さんは75歳で旅立ってしまった。
遠い憧れの存在なのに、なぜかとても近くに感じていて、とてつもなく悲しい。

これまで冒険・夢・希望をありがとうございました。
心よりご冥福をお祈り致します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?