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北京滞在記①〜お玉と一緒に買ったもの〜

新婚当時(四半世紀前になるが…)、夫の仕事の関係で北京で暮らしていた。住まいはアジア選手権大会の選手村だったマンションだった。家具や家電は備え付けだったため、北京生活への備えとしては中国語を駅前留学で一年ほど勉強したのみで、生活必需品はほとんど日本から持って行かずに現地調達していた。まだまだ北京での生活に不慣れな中、日本との物価の差もまだピンと来ていない状態で…私は日用品の買い出しに出掛けた。

北京での交通手段はもっぱらタクシーだった。初乗はいくらだったか…?でも、日本でタクシーに乗るよりは断然安くて、気軽に利用していた。向かったのは燕沙購物中心というショッピングセンター。ドイツ資本のルフトハンザショッピングセンターがオリジナル名で、中国の庶民層からすると高級デパートの類になる。普段は全く高級志向でも何でもないこの私だが…日本から行ったばかりの私の目には、特に高級デパートには見えず…。 そこで、色々と物色していると、ふとおたまじゃくしが目に入った。持ち手がちょっとおしゃれな木製というだけで、なんの変哲もないおたまじゃくしだ。俗に「おたま」と呼ぶ、味噌汁などを掬う調理器具だ。値段は80元。当時の1元が日本円で13円ほどだったので、日本円で1,040円。(この価格は、すっかり中国の物価が肌に馴染んでいた夫を、後に驚愕させる事になる。)

 その小洒落たおたまと共に色々と買い物を終え、いざ帰路につく段階で、はっとした。…タクシー代がない…。多分20元弱で帰れるはずだが…足りない…。80元もする高級おたまなど買っている場合ではなかったのだ!

歩いて帰るには遠すぎるし…途方に暮れていると…一人の中国人の青年が中国語で「何かお困りですか?」と声を掛けてくれた。中国でよくある詐欺の手口は予め調べていたし、元々そういう胡散臭いものに対する嗅覚はかなり鋭いと自負しているが、その私の嗅覚が「大丈夫」と判断した。私は事の顛末を駅前留学で学んだ中国語をフル稼働して青年に説明した。

お金より知識が役に立つ事は、この瞬間に体験した。私の中国語は青年に通じ、青年は
「バスなら1元で帰れる。アジア村まで行くバス停まで送りますよ」
と、自転車の荷台を指差した。

 北京は故宮を中心に、内側から二環路三環路四環路と環状線が走っている。買い物をしたデパートは三環路でアジア村は四環路沿いだったので、三環路から四環路へ一つ外側の円へ向かう。アジア村行きの路線バスがある四環路を目指し、三環路から四環路への直線道路を青年の自転車の荷台に乗せてもらって移動した。
 青年が言うには、彼のお兄さんが日本で働いていた事があり、そこで接した日本人にとても親切にしてもらったと聞いていたそうだ。だから、彼は中国で日本人が困っていたら親切にしようと思っていた、との事。それを聞いて感激したのと同時に、さっきの私は一瞬で「困っている日本人」と判断できる典型的な例だったのかと思うと可笑しくなった。

 10分ほどで四環路のバス停に着き、しばらくするとバスが来た。昭和を思わせる古めかしい車体がジャバラで二台連結されたバスで、日本人駐在員はまず乗らないであろう乗り物だ。私は、バスに乗り込む前に、せめてものお礼に…と、某有名メーカーの果汁100%ジュースを買い物袋から取り出し、青年に差し出した。彼はジュースを受け取らず、「もし日本で困っている中国人がいたら助けてあげてくれればいい」と言って、私をバスへと促した。

 無事に帰宅した私は、とても高級デパートで買い物した人間とは思えないくらい、全身汗と土埃にまみれていた。
 夕方、帰宅した夫にその出来事を話すと、
「タクシーで帰って、マンション入口で運転手に待ってもらって、お金を部屋に取りに行けば良かったのに」
と言われ…
「なるほど、その方法があったか…!!」と思った。

 でも、あの時その方法を思いついていたら…あの親切な青年に会う事もなかったし、一度もジャバラバスに乗る事もなく中国生活を終えていただろう。
 そして、その時買った高級おたまは、今年銀婚式を迎え1男2女に恵まれた私達家族の食卓で大活躍してくれ、今もなお我が家の台所で大活躍している。木目はかなり色褪せたものの…さすが80元しただけはある。
 私は、そのおたまで味噌汁を作る度に、あの親切な青年のことと、青年の自転車の荷台とジャバラバスに乗りながら見た埃っぽい北京の風景を思い出す。私は80元でその思い出も一緒に買ったと思っている。

本当に良い買い物だった。