北京滞在記④〜在北京的韓国朋友〜
北京での私の一番の親友は韓国人の女性だった。彼女は、心が通じ合うのに国籍は関係ないと教えてくれた最初の存在だ。
彼女との出会いは、北京に行って間もない頃、色々な語学スクールを見学に行っていた時の事だ。彼女(中国語の発音でメイシャン)は、ある日訪れた語学スクールに韓国人の奥様方と一緒に通う駐在員妻の一人だった。
先輩の奥様方と一緒に通っているためか、初めて会った時のメイシャンはとてもかしこまっていた(今から思えば猫をかぶっていた)。場所は北京ではあったけれども、メイシャンにとってその空間は韓国社会で、韓国企業の駐在員の妻として一生懸命に務めていたのだろう。まるで、日本人会の奥様会に参加しているときの私のようで、すごく親近感が湧いた。
レッスンが終わり、私とメイシャンは歳も近くてまだ子供がいないという境遇も似ていたので、連絡先を交換した。
後日連絡を取り合って、アジア村のシンボルである巨大パンダ前で待ち合わせをし、近くのミートローフ屋さんでランチをした。お互いの事や韓国・日本の事など…楽しく話しながらランチを楽しんだ後、我が家に招待した。
お茶を飲みつつ…その時メイシャンと何を話したのだろう…?今思い出せるのは、韓国では英語教育が盛んで皆イングリッシュネームを持っている事、生まれてすぐに個人番号を割り振られる事、子供が生まれるまで絶対に性別を教えてもらえない事、LOTTEは私は日本メーカーだと思っていたのだが実は韓国メーカーだった事、日本や韓国の漫画や芸能人の事、「道路」や「弁当」は韓国語でも「どうろ」「べんとう」と発音する事…など日常の他愛もない事から国際情勢に関わる事まで…色々話をした。
その後、「グラン・ツーリスモ」という、レーシングカーでレースをするテレビゲームをした。私は夫と一緒によくそのゲームをしているので、そこそこレーシングカーをまともに走らせる事が出来たのだが…メイシャンは初めてで、恐る恐るレーシングカ―を発進させ…無事に発進させたのも束の間、ハンドルを上手く切れずにサーキットの壁にいきなりぶつかり…まずひと笑い。壁に激突したところから、方向転換を試みるもなかなか方向転換出来ず、サーキットの壁際でジリジリと無様にもがくレーシングカーを見て二人共笑いが止まらず…ようやく方向転換出来たと思いきや逆走していて他のレーシングカーと正面衝突…!!その瞬間私もメイシャンもお腹がよじれてどうにかなってしまうのでは…と思うくらい笑い転げた。
「笑死了!(シャオ スー ロ!)」
と叫びながら…この中国語は正に今の私達にピッタリだ…と思いつつ、本当に文字通り死ぬほど笑った。
腹筋が崩壊してしまうのではないかと思うほど笑いに笑ったゲームを切り上げ、アジア村から出てすぐのショッピングセンターへ繰り出した。色々な服飾雑貨などを見ながらぶらぶらし、変わった柄の服や、中国ならではの雑貨や置物なんかを女子高生に戻ったかのごとく、きゃっきゃとはしゃぎながら見て回った。本当に時間の経つのも忘れて楽しく過ごした。
夕方、家路に着く為の下りエレベーターで、さっきまで女子高生の如くはしゃいでいたメイシャンがふとしんみりした顔になり、ポツリと言った。
「你是跟我的韓国朋友一様(ニーシーゲンウォーダハングオパンヨウ イーヤン)」(あなたは私の韓国の友達と同じだわ)
私も北京に来て依頼、あんなにお腹がよじれるほど笑ったのは久しぶりだったが、メイシャンもきっとあんなに笑ったのは久しぶりか、もしくは北京に来て依頼初めてだったのかもしれない。北京という異国の地での生活や、韓国企業の先輩奥様方とのお付き合いなど、きっとメイシャンなりに緊張して過ごしていたに違いない。
私もポツリと返した。
「我也覚得那様(ウォーイェジュエドネィヤン)」(私もよ)
それ以降、私とメイシャンはお互いの家を行き来したり、外食したり、互いの夫を交えて食事したり、ボーリングにも行ったっけ…。その後、メイシャンは韓国人の奥様方と通っていた教室から、私が通う「地球村」に転校した。そして、半年ほど一緒に地球村に通った次の春、私とメイシャンは地球村では物足りず(?)北京語言大学の短期留学科に現地から申し込み、一緒にキャンパスライフを楽しむ事になるのだった。
そして更には、メイシャンはアジア村の同じC棟に引っ越して来た。アジア村の方が家賃が安かった事や、大学に近かったという事もあっただろうが、やはり韓国の奥様方としょっちゅう顔を合わせる以前のマンションより気楽に暮らせるという事もあったのだろう。
メイシャンがアジア村に引っ越して来てからの事や、大学での思い出は、とてもここでは書ききれない。北京でのいくつかの季節を私達は本当に楽しく共に過ごした。そして北京で二回目の冬を越した春、私は出産の為に日本に一時帰国することになった。
出産後子供の首が座る頃に戻って来ると、奇しくも私より少し後に出産を控え程なく韓国に一時帰国する予定だったメイシャンに告げ、お互い我が子を連れて会おうと約束して北京を後にした。
しかし、私は我が子の首が座ったら戻るという約束を守れなかった。出産後、実家から北京に戻る準備をしていた矢先、父が突然死するという悲劇が起きたからだ。その為、北京に戻るのを延期し、結局北京に戻ったのは年が明けた春節休み(二月上旬)だった。
実に十ヶ月振りに戻った北京の風景は、異国の地ではあるものの、何だか不思議と懐かしく感じた。初めて北京に降り立った時は、北京に「来た」感覚だったが、その時は北京に「戻って来た」と感じた。いつの間にか北京は私の戻るべき場所になっていた。
出産前に住んでいた部屋は子連れで住むには手狭だったので、私が日本に一時帰国している間に、夫は同じアジア村の別棟の部屋に引っ越していた。雑然と置かれた引っ越し荷物の片付けが落ち着いた頃、私は八ヶ月になる息子を連れて、以前住んでいたC棟を訪ねた。メイシャンも住む棟だ。
エントランスでフロントのスタッフ達が、私の顔を見て、
「好久不見!(ハオチゥ プーチェン!)」(お久しぶり!)
と、感嘆の声を上げてくれた。一通り近況報告した後、スタッフにメイシャンが居るか尋ねると、フロントからメイシャンの部屋に電話してくれた。
スタッフの受け答えから、メイシャンが私の訪問に驚き、「本当に本当か?!」と何度も聞いている様子が見て取れた。私を部屋に通して良いかとのスタッフの問いかけに対し、メイシャンはいつも以上に最大限の甲高い声で、
「当然好!!(タンレン ハオ!!)」(もちろん!!)
と興奮気味に答えてくれたそうだ。
日本であんなに悲しい事があったけれども、私が北京に戻るのをこうやって心待ちにしてくれていた友がいた…そう思うとメイシャンの部屋まで上がるエレベーターの中で思わず涙が出た。
我が子が生まれて喜び、その後父が亡くなって悲しみ、そして今から友と再開する…。こうやってみんな生きて来たんだな、そして私もこうやって生きて行くんだな…と、当時二十六歳だった私は思った。
メイシャンの部屋に着き、子供を連れたメイシャンと再会した私は、そこは確かに北京という異国の地ではあったけれども、自然と口から出た言葉は、
「我回来了!(ウォー ホゥイライロ!)」(ただいま!)
だった。