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秦始皇帝による古代中国の統一

 戦国七雄のうち西方の秦国が一頭抜け出して他の六国を征服して中国を統一しました。そしてそれ以後は以後漢から隋・唐・宋・元・明・清と王朝が交代していくことになります。‘
 王朝交代は、だいたい地方の軍閥が中央の王朝の末期になって腐敗した政治を刷新するというストーリーです。なお漢民族ではない王朝はモンゴル人による元と満州人による清でした。現在の中共も一種の王朝ですから、やがて地方の軍閥がその勢力を拡大して、共産党を倒すことになると思います。
 秦始皇帝による統一には宰相の呂不韋の力が関与していました。呂不韋は商人の子として生まれ若い頃より各国を渡り歩き商売で富を築いたのです。 の人質となっていてみすぼらしい身なりをした秦の公子の異人(後の子楚=秦の荘襄王)をたまたま目にして、「これ奇貨なり居くべし (これは、思いがけない品だ。仕入れておくべきだ)」と言ったそうです。
 子楚は秦に送り返され太子となり、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となります。呂不韋は相国(当時は相邦と呼ばれていた)となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられ、その荘襄王が若くして死に、太子の政が王となり。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がりました。
 秦王政6年(紀元前241年)、の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退しています(函谷関の戦い[8]。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられているのです[9]。その後、秦は他の諸国を滅ぼして中国を統一し、秦王政が秦始皇帝になりました。


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