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藤原伊織『ダックスフントのワープ』読書感想


『テロリストのパラソル』に続き、2作目の藤原伊織さん。

なんだか不思議な題名ですよね。昔、祖母の家でダックスフントを飼っていたこともあって、ずっと気になっていました。

今回オーディオブルで聴読したので、感想を書いてみようと思います。



作品紹介

大学の心理学科に通う「僕」は、ひょんなことから自閉的な少女・下路マリの家庭教師を引き受けることになる。

「僕」は彼女の心の病を治すため、異空間にワープしたダックスフントの物語を話し始める。

彼女は徐々にそのストーリーに興味を持ち、日々の対話を経て症状は快方に向かっていったが……。表題作ほか三篇。解説・藤沢周


こんな人におすすめ

○子を持つ親世代
○寓話小説が好きな人
○お洒落な会話を楽しみたい人


感想(※以下ネタバレを含みます)



魅力的な冒頭

読み始めてすぐ、物語に引き込まれました。

ダックスフントがスケートボードに乗って走っている。想像するだけでも、なんとも愛らしいですよね。「体型にとても合っている」という表記にも笑みが溢れました。

主人公「僕」の授業の進め方にも好感を持ちましたね。

一方的に話すのではなく「例えば君が〜だったら」とか「君が初めて〜した時のことを思い出してごらん」とか、マリに寄り添おうとする姿勢が窺えます。

ダックスフントが女の子にぶつかりそうになった時の感情についても、丁寧に言及していましたね。

まず「パニック状態」になって、その後「ゲシュタルト崩壊」する。

この流れ、なんとなく分かるような気がするんですよね。個人的に真っ先に浮かんだのは、学生時代のテスト期間です。

私はあまり真面目な生徒ではなかったので、テスト勉強といえば一夜漬けタイプでした。1日前にテスト範囲を確認して愕然とし、軽いパニック状態に陥ります。

それから死に物狂いで勉強するのですが、明け方になると「もうどうでもいいや」と布団に入るんですよね。

程度はかなり違いますが、ダックスフントの感情の流れとほとんど一致していませんか?笑

「まだどうにかなるかもしれない」と思っているうちはその解決法を探してあくせくしますが、諦めると同時に感情が停止します。

脳が疲れると脳内麻薬が分泌されるように、ゲシュタルト崩壊が起きるのも自己防衛本能なのかもしれませんね。


お洒落な会話

『テロリストのパラソル』を読んだ時にも感じたのですが、いちいち会話がお洒落なんですよね。

「ステージの方はどう思った?」

「グループのネーミングが間違っていますね。みんな脚が長いじゃないですか」

「ねえ、あなたは率直な方?」

「率直であろうと務めてはいます」

「どの程度に?」

「できれば、よく磨いた鏡くらいには率直に」

なんというか、一種の芸術作品のようにも思えてきます。

しかし、実際にこんな会話をする人は少ないですよね。まさに小説ならではの作り込まれた会話という感じです。

「よく磨いた鏡くらいには」なんて気の利いた台詞、一度でいいから言ってみたいものです。


客観的に過ぎる 

「僕」は女教師からこう評されていました。

「客観的に過ぎるのよ。周囲のこと全ても、もちろん自分自身も」

「客観的」と聞くと、良いイメージがありませんか?

よく学校の先生から「相手の気持ちになって考えましょう」なんて言われますよね。仕事をする上でも、客観的な考え方は必要不可欠です。

しかし、「僕」のように客観的に過ぎると「冷酷」に映ってしまうこともあるんですね。

「僕はいつも周りの人たちのバランスを崩してばかりいた。その時は気づかないけど、後で考えるといつもそうなんだ」 

切ない台詞です。

冷静に客観視できるが故に、無意識に人を傷つけてしまうんですね。

シーソーの例えも分かりやすかったです。

「シーソーに乗った時、ほら、後ろに下がれば君の方が重くなってバランスが壊れるだろ。あれとおんなじでさ、君が無視して遠くなればなる程、君が人のバランスに与える影響は大きくなるのかもしれない。それが嫌ならシーソーから降りて、引力の及ばない遠くまで行くしかない」

しかし、完全にシーソーから降りる(人間関係から離れる)ことはできませんよね。

折り合いをつけて生きていくしかないんでしょうが、それがなかなか難しいのも事実。

正解がないからこそ、自分なりに納得できるような人間関係を築いていきたいものです。


マリの死

突然の展開に驚いた方も多いのではないでしょうか。

個人的には、別に殺さなくても……と思ってしまいましたね。

さらに、心境の変化があったとはいえいきなり「ママ」なんて呼ぶかなあ……と首を捻ってしまいました。これまで無視し続けていた相手を、命懸けで助けにいくというのも強引すぎるような気がします。

しかし、何度か読み返しているうちに少し考えが変わりました。

今まで、ママはママなりに一生懸命マリと接していたんですよね。そしてマリも少なからずそれを感じ取っていたのではないでしょうか。

そんな小さな積み重ねが今回のような結末を生み出したのだとしたら、納得できるような気がしました。


乾杯

マリの死を知って尚、冷静だった「僕」

「乾杯」は一体何に対してのものだったんでしょう。

マリへの賞賛?
マリに与えてしまった影響への後悔?
罪悪感?

まだまだ考える余地はありそうです。

また読み返したいですね。

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