最近の記事

彼女の地獄

母親が泣いていると、三歳になったばかりの息子が おずおずと寄ってきた。 座り込んだ母親の顔は、ちょうど彼の目の高さにある。 息子は手を伸ばし、そっと母の頭を撫でた。 「痛くない痛くない」 小声で呪文のように繰り返し、息子は母親の頭を撫で続けた。 泣くのはきっと、身体のどこかが痛いから。 幼い知識を総動員して、小さな手は母を慰めていた。 しかし、彼はまだ知らない。 大人は、身体が痛いくらいでは泣かない。 母親もだから、そんなことで泣いているのではなかった。 ピントのずれた慰め。

    • 遠い日の赤いバラ

      古い本をパラパラとめくっていたら、本の間から、 赤い花びらの押し花が、はらりと舞い落ちた。 ああ、あの時のバラの花だ、と、すぐに思い出した。 花束をもらった日の、くすぐったいようなときめきまで、 はっきりと思い出せる。 萎れる前に散らしてしまった花びらを、捨ててしまうのは 忍びなくて、そのころ読んでいた本の間に挟んだのだ。 今、拾いあげて、手のひらに乗せた花びらも、 つい昨日まで生きて、水を吸い上げていたような、 キレイな色をしていた。 ほんの少し、くすんでしまっただけ。 昔

      • 夢の中で

        白髪の老婆を小舟にのせて、河を下っていた。 老婆は眼を閉じ、静かに横たわっていた。 時々、両手がふわりと上に動いた。 それを横目に見ながら、ゆっくりと櫓をこいだ。 櫓から落ちた雫が、とろりと重く、血の滴りのようだった。 川面は暗く、遠くの景色は闇に飲まれて消えている。 ただひたすらに櫓を漕ぎ、そうしながらも、頭の隅では、 この河の先は海だから、どこかで舟を降りなければ、 と考えていた。 河岸に舟だまりが見えた。 いつの間にか、舟を降り、荷物を運ぶ小さな牛車に 乗り換えてい

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