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コミュニケーションツールとしての旧仮名遣いの考察   

数日前にTwitterで旧仮名遣いを使用したコミュニケーションという話題を見てとても興味深かったのでまとめを兼ねて考察してみようと思いnoteを始めてみました。もし少しでも興味を持っていただけたら読んでいただけると幸いです。

議論のはじまり

まず騒動の発端はみんみんぜみというユーザーさんのツイートに対する旧仮名遣い側の押井德馬というユーザーさんの以下の発言から始まりました。

これは「旧仮名遣いで何でも書く人はコミュニケ―ションする気がない(印象がある)」という発言に対してなぜそう思うのかという発言であり、多少噛みついているように思います。
これに対してみんみんぜみさんは以下のように返答しています。

これは文章というものは基本的に読んでもらうための物なので一般的な文章である現代文ではなく、一般人が読みづらさを感じる旧仮名遣いを常に使用する人は読者に一般人を想定してコミュニケーションを取ろうとしていない。そのため相手の利便性を考えず、ふるい落とされるという意味でも読むべき者を選ぶという意味でも選別していると言っています。
これに対する押井德馬さんの反論が以下のものです。

これはつまり書いている主題や使用する言語・言葉によって皆に読ませる気がないということはなく、また漢字の旧字体ならまだしも旧仮名遣いは誰もが習っていてるのだから一般の人もみんな旧仮名遣いの文章を読んでいいと言っています。

この反論に対してはみんなに読ませる気があるのに読みにくいと感じる人がいると分かっている旧仮名遣いを使い、その解決方法が読みやすくしようではなく旧仮名遣いを読んでいいんですでは頓珍漢な答えだと個人的には思います。
また読んでいいという言い方には読みにくいという人の想定が最初からなされていないことが見て取れて問題だと思いますが、読者のみんなの想定が身内だけなら問題にはならないのかなとも思います。

他の旧仮名遣い側の主張と反論

またみんみんぜみさんの同じ発言には他の旧仮名遣い側の人達が反論しているので以下に取り上げます。

まずコシヌケ1040さんは書き手はみんな読んでもらうために文章を書いており、旧仮名遣いでもなんでも使用する言葉は書き手個々人の選択の結果でしかないと言っています。
つまり読者の目線ではなく書き手の目線でみんなに読んでもらうために書いており、使う言葉は読み手ではなく書き手に依存すると言っています。

この発言については、みんな文章を読んでもらうために書いていると言っても読んでもらうために書く事とより多くの一般人に読んでもらえることは別のことで、どういう気持ちで書こうと読んでもらえるかどうかは読者が読みたいと思うかどうかにかかっていると思います。

ではより多くの一般人に読んでもらえるのは旧仮名遣いと現代文のどちらかと言えば後者だと思います。にもかかわらず個々人の選択の結果として旧仮名遣いを使うのはより多くの一般人に読んでもらうことより旧仮名遣いを使うことを優先していることになります。
このため現代文で書けばみんなが理解できるのに個々人の選択の結果として旧仮名遣いを使えばそれで読む気をなくす人、苦手意識を持つ人とのコミュニケーションを拒絶して選別することになるため、みんみんぜみさんの言っていたコミュニケ―ションを取るのを拒否しているということを証明している形になっていると思います。

次に名賀月晃嗣 (あっきー)さんは4点あげて反論していますが古典の授業で習っただろうし習わなくても理解できて当然という態度は勉強でしか旧仮名遣いに触れていないことからくる苦手意識や理解できても読むのが面倒くさいという忌避感への理解の欠如が見られ、そういう読者の視点が欠けていると思いました。
そのため名賀月晃嗣さん自身の目線で自分は利便性か減るとは考えていないという旧仮名遣いに苦手意識を持つ読者や読む気をなくす読者という対話相手の視点がない個人的な観点の帰結となっているように思います。
またこの旧仮名遣いに苦手意識を持つ読者や読む気をなくす読者という視点を欠いているために旧仮名遣いが一般から外れるという認識はイカレていると続くのだと思います。

しかしそうであるなら旧仮名遣いを使用している人はコミュニケーションに一般読者を想定していないという発言に対して旧仮名遣いに苦手意識を持つ読者という視点が元々なく、皆が理解できて当然であるため旧仮名遣いによるコミュニケーションにそもそも問題はないとなるはずです。
それなのに自分の周りは旧仮名遣いを使用している人の方が少ないように思うからコミュニケーション云々は言われても知らないと言ってコミュニケーション上の問題点について明言を避けているのは論理的におかしいように思います。

旧仮名遣い側に多かった主張と反論

以上が旧仮名遣い側のおおよその反論内容ですが、他の旧仮名遣い側の人の発言に多かった物としてはやはり中学高校の古文の授業で習っているからみんな読めるというものです。
ただこれは習っているから読めるとしても読めると読めないの間には読めるけど読みにくい、めんどくさい、読む気をなくすなどがあって一般人とのコミュニケーションツールとしてはやはり現代文に劣っているように思います。

また旧仮名遣い側の多くの人達が旧仮名遣いをみんなが読める理由として中学高校の授業で習っていることしか挙げられなかった事がいかに旧仮名遣いが一般人となじみの薄い言葉であるかを本人たちが証明しているように思いました。
なぜなら旧仮名遣いは大多数の人にとって勉強として授業で習うことでしか触れることのないなじみの薄い言葉ということだからです。

これに対し比較対象として英語とカタカナを挙げてそれらが文章に入っても読みづらさを感じるという人は居ないから旧仮名遣いが入っても読みづらくないと例に出していた人がいました。
ですが英語とカタカナは勉強しなくてもテレビやネット、書籍や街中など日常生活の中に溢れている非常になじみのある言葉で、なじみの有無で言えば授業でしか触れることのない旧仮名遣いとは比較にならないほど上位に位置する存在です。
それなのに比較対象としてそれらを挙げるのは旧仮名遣いにも同じくらいなじみがあるという認識なのでしょうか、非常に興味があります。

このように旧仮名遣い側の主張と反論を見てきましたが、これらから考えた場合みんみんぜみさんの一般読者を想定しておらずコミュニケーションを拒否しているという主張はそう間違っていないと思います。
なぜなら旧仮名遣い側は一般読者に向けてより読みやすい文章にするよりは表現の自由を重要視して旧仮名遣いを使うことの方を重視しているからです。
また旧仮名遣い側が想定する一般読者とは旧仮名遣いを難なく読める人達のことであり、そういう旧仮名遣いを普通に読んでくれる身内の読者のために書き、読んでもらえれば良いという人が多い気がします。
ですがこれもまた身内ではない世間一般の読者に対するコミュニケーションの拒否という点でみんみんぜみさんの主張と合致していると思います。

両者の主張と論点の違い

以上のことから、みんみんぜみさんは文章を不特定多数の一般人の読者とのコミュニケーションツールと位置づけており、そうした場合に常に旧仮名遣いを使用することは旧仮名遣いになれていないことで読む気をなくす人の存在を考慮すれば読者に一般人を想定していないと主張していると言えます。

これに対して旧仮名遣い側は旧仮名遣いで書くのは表現の自由であり、また一般人はみな旧仮名遣いを学習しているから読めて当然であるのだからコミュニケーションの拒否などはない。よって読めないなどの声で使用を辞めさせられる理由もないので旧仮名遣いで書いて良い、何の問題ないという主張をしていると言うことができます。

この両者の主張からは両者の議論の中心・論点に大きなズレが生じていることが見て取れます。
そしてこのように両者の議論の中心・論点にズレが生じて嚙み合わない原因は、旧仮名遣い側の人達が旧仮名遣いの使用自体ではなく一般読者とのコミュニケーションツールとしての機能についての話であるという相手の真意が分かった後にもコミュニケーションツールとしての適性という議論・論点に移行せず、ただ読める理由を挙げ、読めないと言う人はアンチと言い、旧仮名遣いの使用を辞めなくて良いといった自己擁護に終始したためだと言えます。

しかしそもそもの事の発端は常に旧仮名遣いをする人はコミュニケーションをする気がない印象があるという発言に旧仮名遣い側から嚙みつきに行ったことであり、その発言の真意は一般人の読者を想定していないという点でした。
それなら旧仮名遣い側の人達は自己擁護をするのではなく積極的に旧仮名遣いと現代文のどちらが一般人に対するコミュニケーションツールとしてより優れているか、適しているかという話に移行すべきであったはずであり、もっと言えば移行しなければならなかったはずです。

では真意がわかった後にどうなるのが自然であったかを考えればコミュニケーションツールとしての適性という話に移行し、発言の読み方に誤解があり確かに旧仮名遣いは一般人に対するコミュニケーションツールとしては現代文に劣るかもしれないが、旧仮名遣いで文章を書くこと自体は問題ではないということを旧仮名遣い側が言うことであったと思います。
ですが実際に行われたことはコミュニケーションツールとしての適性という話自体は避けて旧仮名遣いで文章を書くことは悪くない、読めない人は居ない、読めないという人はアンチであると言うことでした。

ではなぜこの自然な流れであるコミュニケーションツールとしての適性という話に移行できなかったのかという点を考えた場合、それは旧仮名遣い側の人達は旧仮名遣いのコミュニケーションツールとしての適性という点で議論をする想定を最初から一切していなかったためと考えられます。

そもそも最初に噛みつきに行った後の展開の想定としては相手はアンチで旧仮名遣いをする人はおかしいという話の展開となる旧仮名遣いをする人VS旧仮名遣いアンチという構図を予想していたのだと思います。
なぜなら旧仮名遣いアンチと言われる人達が昔からいて旧仮名遣い側の人達はその旧仮名遣いアンチの人たちと長年レスバというか争いを続けているらしいのです。

そのことについて発言しているのが以下のツイートです。

また押井徳馬さんはこれに関連してなぜ相手によって字体を変えずに旧仮名遣いに固執するのかに対する答えとして、そういう挑発が常態化しているので字体を簡単に変えないことが旧仮名遣い側では習慣化していると説明しています。

そのため事の発端である発言および発言者を旧仮名遣いアンチと認識して噛みつき、旧仮名遣いをする人VS旧仮名遣いアンチといういつもの構図を考えたが、相手がアンチではなくて肩透かしを受けた上に一般人に対するコミュニケーションツールとしての話になってしまったために話の持っていきようがなくなったのだと思われます。
なぜなら相手がアンチでないならいつものやり方で戦うことはできず、一般人に対するコミュニケーションツールという話になれば現代文には勝てないからです。
そしてその結果が一般人に対するコミュニケーションツールという話に対しては旧仮名遣い側の誰も一切明言せずに古文で習っているから読めるはず、理解して読んでくれる身内の読者を大切にするという態度になったのだと言えます。

しかしここまでの旧仮名遣い側の態度や発言が相手をアンチだと誤認したためというのは攻撃的になった理由や簡単に字体を変えない理由でしかなく、議論の中心となるべきコミュニケーションツールとしての旧仮名遣いという話に対しては何の回答も旧仮名遣い側からはされていないことの理由にはなりません。

両者のコミュニケーションの定義の違い

そこでコミュニケーションツールとしての旧仮名遣いについて旧仮名遣い側がどのように考えているかを以下に考察したいと思います。

そのためにはまず旧仮名遣い側の考える一般人とのコミュニケーションとは何を指すのかを考える必要があります。その考えを端的に表したものとして以下のものが挙げられます。

こちらの野嵜健秀さんはアンチは特殊な例外であり世間一般の人々は旧仮名遣いだからと言って読まないということはないという前提ではありますが、上記のように普通の応対をしてくれるなら普通に配慮、つまり現代文での対応をすると言っています。
また上述の押井徳馬さんも皆が誠実ならという前提ではありますが旧仮名遣いは読みにくいと言われれば現代文で書くという対応を取るということを言っています。

つまりこれらのことから旧仮名遣い側の言う不特定多数の一般人とのコミュニケーションとは、文章による会話・対話によってコミュニケーションを取ることを指してコミュニケーションと言っていることが分かります。
このため相手が普通に読めないと言って来れば配慮として現代文で対応できるということをもってコミュニケーションを拒否していないとなるのでしょう。

この旧仮名遣い側の考えるコミュニケーションからは上述したコミュニケーションの議論における論点と同様に両者が言うコミュニケーションが指しているものにもズレが生じていることが見て取れます。

まずみんみんぜみさんの主張は一貫して文章とは不特定多数の一般人に対するコミュニケーションツールとなりますが、より細かく定義すれば不特定多数の一般人が文章を読むだけで完結するコミュニケーションのツールとなります。
これはそこに文章があり読者がただ読むだけでその内容を知ることができる、つまり読むだけで完結するコミュニケーションとなります。

これに対して旧仮名遣い側はまず文章が読めない場合に会話によるコミュニケーションをとることで文章を読めるようにする、つまり文章だけでは完結せずまた書き手という他者の介在なくしてはコミュニケーションが成立しないという読者が文章を読むだけで完結しないコミュニケーションとなっています。

このことからみんみんぜみさんの言うコミュニケーションは文章を読むこと自体がコミュニケーションであるのに対し、旧仮名遣い側の言うコミュニケーションは文章を読むために必要な会話がコミュニケーションになってしまっています。
このため旧仮名遣い側の考え方では旧仮名遣いで書かれた文章自体をコミュニケーションツールとした時に正常に機能せず、コミュニケーションツールとしての機能不全に陥ってしまいます。

ツールとしての機能不全

このコミュニケーションツールとしての機能不全の例としては店の看板が挙げられ、読めない看板の店に人は行かないし何と書いているか聞くことも無いでしょう。少なくとも最初から読める看板の店に行く人が大多数であると言えます。
このことから看板がコミュニケーションツールであるならば何の店なのか見ただけで読み手に伝わらなければならならず、見ただけで伝わらない、聞かなければ分からないというのはコミュニケーションツールとして機能していないことになります。
ただし店主が一般人向けではなく読める人だけに来てほしい、読める人が来ればそれでいいとするなら、それは店主の自由です。

この看板の例から言えば旧仮名遣い側が言ってくれれば現代文に出来るという時点で、旧仮名遣いを見て読み手に伝わりづらい時点で旧仮名遣いを使用した文章が一般人を対象としたコミュニケーションツールとして機能していないということになります。
あるいは別の視点からいえば旧仮名遣い側の人達の間でしかコミュニケーションツールとして機能していないと言えます。

両者が置かれている環境の違い

またこの言ってくれれば現代文に出来るという態度や上述の読者はみんな旧仮名遣いを読めるという態度からは大多数の一般人の読者の視点が著しく欠けているように見えますが、これは旧仮名遣い側が置かれている環境に起因するものだと考えられます。
では旧仮名遣い側が置かれている環境とは何かといえば読者の方から読みに来てくれる環境でありまた競合相手の少ない環境です。

この旧仮名遣い側の人達が置かれた環境と一般読者を相手にする環境の違いは博物館や展示会と一般書店の本を例として説明できます。
まず旧仮名遣い側が置かれている博物館や展示会のような環境では読者が自分からわざわざ見に来るので最初から予備知識や興味があり、また作品数も多くないので一つずつ時間をかけてちゃんと見てもらえる環境と言えます。

 これに対して不特定多数の一般人を対象にした環境である一般書店のような環境では数多くの作品があり、興味のない物や字が読みにくいものはすぐに見向きもされなくなります。さらに作品が多くあり競合相手が多いのでより見やすく分かりやすくと工夫して発信力を高めなければならない環境と言えます。

この例のように旧仮名遣い側は待っているだけで予備知識と興味を元々持っている人達が勝手に自分から文章を読みに来てくれる環境にあり、最初から読者が厳選されているために一般読者の視点が著しく欠ける、あるいは想定する必要がないのだと考えられます。

このため旧仮名遣いが競合相手の多い不特定多数の一般人に対するコミュニケーションツールとなるためには今までの受動的な受け身の姿勢ではなく、能動的な積極性のある姿勢になる必要があります。
なぜなら受動的な受け身の姿勢のまま競合相手の多い不特定多数の一般人に向けた環境に入れば上述のように埋もれて見向きもされないからです。

読めるだけでは不十分な点

また一般書店の本の例における数多くの作品があるので興味のない物や字が読みにくいものはすぐに見向きもされなくなり、埋もれてしまうということに関連して文章や言葉の伝達速度という要素の重要性があるといえます。

例えば皆さんが書店に行った際に数多くある本の中から自分の興味を引く本を探すには本の題名を見ていくと思います。その時に本の題名を一つずつ じっくり見ることはせず、次々に流し見をする中で面白そうだと思う題名を見つけたら手に取って読んでみると思います。
このことからは大量の本を流し見する中で次々に本の題名から好き嫌い・面白そうつまらなそうを瞬時に判断しているということであり、その中に読みづらい字で書かれた題名の本があればスルーされるでしょう。
なぜなら他にも本が大量にあるのだから次の読みやすい字で書かれた題名の本に流れていくからです。このため読みにくい言語の題名では手に取ってすらもらえず認知すらされないので内容も見てもらえないのです。

この例から考えた場合、旧仮名遣い側の人たちは読めるか読めないか、内容を理解できるかできないかという読解の点を主題にしがちですが旧仮名遣いを一般人に対するコミュニケーションツールと考えるならば文章や文字が目に入ってから理解するまでの速さという意味での伝達性・伝達力の高さという視点も必要だと思います。

なぜなら現代はただでさえ情報社会であり個人の周りには読み切れないほどの大量の情報があふれかえっているため、そのような中で取捨選択が迫られれば伝達性・伝達力が相対的に低い文字や文章は真っ先に切り捨てられると考えられるためです。
また仮に多少の時間のロスや小さなストレスを耐えて読んでくれる一般人がいたとしても読むものが増えていけば一つの文章なら少しの時間のロスもいずれ大きなロスとなるでしょうし、ストレスも積み重なれば大きなストレスとなって結局忌避するようになってしまうでしょう。

このため文章をコミュニケーションツールとして考えた場合、読めることは大事ですが読めるだけではダメで、読者が読む際のストレスや理解するまでのタイムラグが極力少ないことが必要だと言えます。

旧仮名遣いがツールとなる条件

以上のことから旧仮名遣いが一般人に対するコミュニケーションツールとなるためにはまず置かれている環境が違うという認識を持つことが第一です。この違いを意識できれば旧仮名遣い側に著しく欠けている一般読者の視点を想定することができます。この一般読者の視点の想定はコミュニケーションツールとなるために最も重要な要素と言えるでしょう。

なぜなら一般読者の視点から見れば競合相手が多くいる環境では一般読者は多くある文章から読みたいものを選ぶ立場であり、このことを旧仮名遣い側が理解すれば読みにくい文章である旧仮名遣いをどのように伝えるかという工夫を考えるようになるためです。
そして伝え方の工夫を考えれば、旧仮名遣い側は現状のようにみんな読めるはずと言って切り捨てるのではなく、読者が読む際のストレスや理解するまでのタイムラグが極力少ない書き方を考えるようになるはずです。

またこの旧仮名遣い側が置かれる環境を正しく認識することで旧仮名遣いは一般人に対するコミュニケーションツールとなれるという点から今回の騒動を考えた場合、旧仮名遣い側の多くの人が読めない人は居ないと一般読者の視点を想定していないことから置かれる環境を正しく認識しておらず、そのため旧仮名遣いの文章はコミュニケーションツールとなっていないと言えます。

このため騒動の原因となった常に旧仮名遣いで書く人はコミュニケーションを拒否しているという発言は、文章をコミュニケーションツールとして読むだけで完結するコミュニケーションを拒否しているという意味で純粋な事実と言えます。

まとめ

今回の騒動は旧仮名遣いを使用したコミュニケーション、正確にはコミュニケーションツールとしての旧仮名遣いという議論における論点のズレと両者が考えるコミュニケーションが指すものの違いが全体の話を拗れさせた原因だと言えます。

加えて私の考察では旧仮名遣い側の人達が自身の置かれている環境と一般人を対象とする際に置かれる環境の違いを正しく認識することが旧仮名遣いをコミュニケーションツールとするためには必要であることを示しました。
そして現状の旧仮名遣い側はその正しい認識ができていないので旧仮名遣いはコミュニケーションツールとはなっておらず、よって一般人とのコミュニケーションを拒否していると結論付けました。

しかし旧仮名遣い側はコミュニケーションツールとしての旧仮名遣いについて一切明言も回答もしていません。
この旧仮名遣い側の態度は問題だと思います。なぜなら旧仮名遣い側から因縁をつけ批判したのにコミュニケーションツールとしての適性・有効性については一切明言も議論もしないのでは誠実ではないと考えられるからです。

また旧仮名遣いが伝わるか伝わらないかは言葉・文章の問題ですが誠実ではない真摯ではないというのは人間の問題です。
もし旧仮名遣い側の人達が本当に自分たちが言うように不誠実なアンチとは違うと言うなら真摯に対応することが旧仮名遣いにも因縁をつけた相手にも誠実である態度だと思います。
少なくとも会話によるコミュニケーションは出来、また応じるという立場なのですから旧仮名遣いのコミュニケーションツールとしての適性・有効性について答えることが誠実でありまた真摯な対応だと思います。

おわりに

長い文章に最後までお付き合い頂きありがとうございました。
出来る限り公平になるよう心掛けて書きましたが「コミュニケーションツールという観点」からの考察であるため、旧仮名遣い側の方で不愉快を感じたり気分を害される方がおりましたら申し訳ありません。

また旧仮名遣い側の人は一般人の目線で今回の騒動を見てどう思ったでしょうか、あるいは今回私の文章で初めて騒動を知った人はどう感じたでしょうか。それがどのような感想だとしてもそれこそがコミュニケーションツールとしての文章によるコミュニケーションだと思います。

そしてもし旧仮名遣い側の人でしたらぜひ明言されていないコミュニケーションツールとしての旧仮名遣いについての考えを書いていただければと思いますが反論や意見でも構いません。また一般の方も短い感想や簡単なコメントでも構いません。どのような感想であっても書いていただけますと非常に嬉しく思います。


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