曖昧模糊
あっという間に、8月が終わってしまった。
9月の初っ端から体調を崩し、病名も白黒つかず(必要な検査を行っていない)まだ、夏休みの延長線である。
とはいえ、そろそろ勉学に本腰を入れなければ。なんて言いながら図書館で勉強している人達を横目に、携帯こんな文章を打ち込み、ドリンクを飲んでいる自分は馬鹿だし、建前は薄っぺらく、剥がれている。
では、崇高な人を眺めて自分を卑下することが本音なのか。否、本音なんて向き合おうとすらしなければないのと同じだ。悲観的である思考回路は、こういったときに役に立たない。自分の未来にも努力にも運命にも期待しないで流れに身を任せて楽をして生きていくのだろう。そりゃ勉強する気も起きない。
こういった時、何か動機をつけるものだ。やりたいことあるの?と聞かれたとき正直にないと言ったら怒られた。動機づけ失敗である。
余談もこの程度にして、本当は本音があることをなんとなく知っている。しかし向き合うのは難しい。
何故なら、この答えは様々な理由で隠したいから。
貴方を悲しませないため、本音に責任が持てないため、生きる保証がないため、周りに迷惑をかけるため。理解してもらえないことを理解してください信じてくださいと言う方が野蛮である。どこで学んだかもわからない一般論から見ても自分の本音は社会とはズレている。しかし、自分は本音を隠して正しい知識と理性で判断を間違えていない。それでこそ建前上の本音ということにしておこう。
死に焦がれる私は曖昧模糊。
end.
この物語はフィクションです。
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