短篇小説(連載)忘却の文治(13)完
沖縄旅行のその日は、朝から曇り空だった。
風はそれほど強くなく、妻の和子にせかされて羽田まで行き、沖縄行きの飛行機に乗って、那覇に着いたのが午後の二時頃だった。二泊三日の旅行だ。二日間は観光に費やした。
二日目の夜、夕食が終わり、さあ渡すかと文治が自分のバッグの中を探しても、無い! プレゼントするダイヤの指輪が見当たらない。家に忘れてきたことを文治はその時、気が付いた。
折角のサプライズが出来ずじまいになった。大浴場に一人浸かりながら、文治はため息をついた。
部屋に戻った文治は、そわそわした態度だったので、妻の和子が、
「あなた、どうしたの? そわそわして」
文治は、「そうか?」と言って、その場を繕った。
旅行から戻っても、そのダイヤリングを和子に渡すことはしなかった。次回の旅行まで仕舞っておこうと思ったからだ。
しかし、二回目の旅行は実現しなかった。
沖縄旅行から戻った次の日、文治が外出していたとき、娘のかおるがやってきて、和子に聞いてしまった。
「お母さん、良かったじゃないの」とにやにやしながら言ったものだ。
「なにが、良かったの?」
「あら、もらわなかったの? お父さんからのプレゼント」
「そんなものいままでもらったためしがない」
その言葉を聞いたかおるは、はっとした。さてはお父さん、渡さなかったのだ。
「おかあさん、旅行楽しかった?」
「たのしかったよ。新婚旅行以来だったから」
「それはよかった・・・・」
「へんね、この子は...…」と母の和子は、不審顔でかおるの顔を見つめた。
かおるは、思った。お父さん、恥ずかしくて渡せなかったのだと。しかし、内緒で二人で御徒町まで行って、買ってきたダイヤの指輪を渡せなかった父を、情けなく思うかおるだった。
外出から戻った文治に和子は、
「今日昼間、あなたが散歩に行ったあと、かおるが一人で来たのよ」
「そうか」と言った文治だったが、内心、しまった! ダイヤの件、渡せなかったことを、事前にかおるに言っていなかったと悔やんだ。すると和子がこう言った。
「あの子ったら、おかしなことを聞いてきたのよ。お母さん、お父さんからプレゼントもらったの? だって」
「そうか」と文治が、内心ドキドキしながら平静を保ち言った。そして言葉を繋いだ。
「今度、お前に何かプレゼントしなければな」
その文治の言葉に、嬉しがる和子だった。
文治は、三年後の七十三歳の時、病に罹り、まだ若くして旅立った。
そのダイヤの指輪は、部屋の奥深くに眠ったままだった。
その後、和子が心持ち落ち着いたとき、娘のかおると、文治の遺留品の整理を始めた。
かおるが「あっ!」と声を上げた。ダイヤの指輪が出てきたのだった。
和子は、声を上げて泣いた。
【 了 】