考える葦、思わざるを得ないヒト、希求する魂

 かつてスマホのない時代があった。かつて本がない時代を人間は生きてきた。長い夜、人は何をしていたのか。人間は何もしないで時を過ごすことはできない。我思う、故に我あり、なのだ。退屈と暇は耐え難い狂気の世界である。皆さんはテレビもラジオも、ましてやスマホも本もない無人島で生きていけますか?

 そんな疑問から数年前から昔話に興味を持った。人類は文字を持たない時代、本を持たない時代、長い夜を口承文芸で楽しんでいたに違いない。つまり囲炉裏を囲んでお話や唄を楽しんでいたはずだ。日本で昔話の研究者といえば民俗学の嚆矢、柳田國男(「遠野物語」はぜひ読んでほしい)が思い浮かぶ。現在では小澤俊夫氏(ドイツ文学者であり弟は世界的指揮者小澤征爾氏である)が精力的に昔話の研究活動をしている。小澤俊夫氏の思想はPod castで聴くことができる。私は「小澤俊夫 昔話へのご招待」という番組を楽しんでいる。地球上の全ての民族には口承文芸が存在し、その膨大なお話が比較分類されている。たとえばおなじみの「瘤取りじいさん」というお話とよく似たものがヨーロッパにも存在する。これは人類の移動の歴史に関連しているのか、はたまたユングが想定した集合的無意識が関わっているのか、想像すると面白い。昔話から始まって、言語学、人類学、心理学へ興味はどんどん広がっていくのである。

 小澤氏はグリム童話研究の大家でもある。その著者の中でシンデレラ(グリム童話第21番「灰かぶり」)が舞踏会で王子から求婚されるのだが2回もその求婚に応じないで逃げかえるという不可解な行動を取る。やがて3度目の正直となるのだがなぜ3回目でなければならないのかについて論じている。もちろん私ごときの解釈では、単に話を盛り上げる(演出する)ために3回目で成就させたとしか考えが至らない。しかし、昔話とは大変な年月を経て気の遠くなるような人間を介した口承文芸である。3回目には何か理由があるはずだ。小澤氏はこう述べている「このような繰り返しによって思春期の心の揺れを表現しているのです」。思春期の魂はあちこち動き回ったり振り子のように振れたりする。損得や好悪だけでなく理性的判断でもなく若者の心は振動するのだ。その思春期特有の振る舞いの象徴としてシンデレラは幸せになれるチャンスを2回までも振り切って逃げ帰ったのだ。

 さて、昔話には人類の連綿とした思考も記録されている。昔話から神話へと想像の翼を広げてみよう。レヴィストロースが提唱した哲学の大きなストリーム、構造主義に思いを馳せてみる。レヴィストロースは世界の神話の構造を研究したのだが、その背景に一貫した構造が隠されていることに気付いた。そこから社会の構成、婚姻関係などを調べたところ西欧文明社会と未開文明社会との比較においてもはや優劣では説明がつかないことを発見したのだ。

 とまあ、読書の面白さは行きずりの旅。たまたま同乗した旅人と友だちになって行き先がどんどん変更するのもまた楽し。世界は不思議に満ちているし、自分の魂に追い求めるなと言っても聞き入れそうにもない。人間とはそういうものなのだ。

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