幸せになる勇気

わりと、最近
筆者が強く感じて
いることなんだけども。

あらかじめお伝えしておくが
今回の記事は
宗教的なこととか(どっかの宗教への勧誘)
スピリチュアル(で、なんか買ってね、これ買ってね、への勧誘)

の話ではない。

今回の話は
「幸せ」と「勇気」についての
筆者なりの
考え、である。

どこまでいっても
「あくまで個人の感想です」的な
話なので

ここから先
お読みになる方たちは
これを読みながら
「あくまで個人の感想です」
というのが
脳内でテロップ表示されてる状態で
読んでいただければ、と?

ちまたでは
「嫌われる勇気」
という本が
相変わらずベストセラーである。

この本が日本で売れているのには
筆者自身「なるほどな」と思う。

日本人は世界でも屈指の
「平和」好きな国民性である。

では、「平和とはなにか?」
について考えてみよう。

かなり、大ざっぱな言い方をすると
「戦争さえしなければ平和」
っていう程度が
大多数の日本人の抱える
「平和」観ではなかろうか?

うん、まず
「戦争ってよくないよね」
ここらへんの考え方には
筆者も「そうだよね」となる。

だが
「戦争さえ、していなければ平和なのか?」

と、考え方を
もう少し、推し進めてみると

必ずしもそうではないことが
わかってくる。

大前提として
とりあえず
「戦争はしない」

これを
「あたりまえのこと」と
考えた上で、さらに
その先の

「平和って?」について
考えてみたい。

結局、それは
各々の
「心の安寧」とか

「これでいいんだ」という
自己肯定感を
割と強めに
実感として、もてている状態が

個人にとっての
「平和」
なのではなかろうか?

・個人の充足

・集団の安定

ほとんどの場合
数値でいえば9割強の場合

いち、個人が
「幸せ、平和」
と感じている状態と

地域、集団、ひいては国家が
「幸せ、平和」
と感じている状態が

同時に成立することは
ほとんどない。

これには原因があって

よくよく考えてみると
そんなことは
決してないし
これは明らかに
間違った考え方なのだけれども

個人の幸せ、平和

の追求

というものが
「自分さえよければそれで良い」

という風に曲解される傾向が
日本だと
非常に強い。

また、同時に

集団、地域、国家にとっての
幸せ、平和

の追求

もっと平たくいうと
この国でよく言われている

「みんな」の
幸せ、平和

の追求

というのは

なんの疑問の余地もないまでに
「みんなとおんなじ、が正解」

という
恐ろしい価値観が
この国の場合、根強くあって

民主主義というものが
「多数派の同調圧力」
でしかない傾向が
物凄く強い。

正しいかどうか?の
価値判断に
「みんなが言ってるから」
という
盲目的な同調圧力が
暴力的なまでに
我が物顔で
まかり通っているのが
実情である。

もっと踏み込んでいうと

こういう時代のせいなのであろう

無言の同調圧力として
「自分が不幸だからオマエも不幸になれ」
とか
「アイツばっかり幸せでズルい!不幸になれ」
とかいったものが

静かに、けど確実に
この国、この社会を
むしばんできているな

というのが
筆者の実感として
ひしひしと、ある。

ここからは筆者の
「あくまで個人の感想です」
な話だが

集団行動として
「みんな」で
ラーメン屋にきて

自分ひとりだけ

「いや、スパゲティ食べたい」
とゴネてたら
「身勝手な人」
と周囲から
レッテル貼られて
嫌われても仕方ないけども

・ラーメン屋さんにきました
・メニューには「味噌、塩、醤油ラーメン」があります
・支払いは各自、自腹で払います

この条件下で
自分以外の9人が
「醤油ラーメンお願いします」
の状態になると
すでにその時点で
相当な「空気、よめや!」
という同調圧力がはたらく(笑)

この状況下で
「味噌ラーメンお願いします」
(自分で支払うんだから食いたいものを頼みたい)


これをやると
「なんやの?あの人?」
と、憎悪の対象になるのが
日本という国だと思う
(例外はある)。

これに加えて
「あと、半チャーハンと餃子一人前
お願いしますわ」
と言おうものならば

「そもそも自分の財布からカネ払って食いたいものを頼んでいる」
という設定状況そのものを
ガン無視して

「空気よんで」
醤油ラーメン、一択の
残り9名ら、からは
「あの人ばかり、ズルい」

という
ワケのわからない
嫉妬やら悪意やらを
集めることになる。

バブル崩壊からの
30年間で
日本人のこの傾向は
かなり強くなった
気がする。

筆者が特に「気持ち悪い」と思うのは

・ひとりだけ頼むメニューが違ったりして
そこで「なんやの、あれ?」みたいなのは
気ぃ、悪いから
みんなおんなじメニュー、ワリカン
に、せぇへん?

って事前に提案されてて
それでも
「いや、自分の食いたいもの頼むわ」
ならば、まだしも

口では
「みんな各々、ご自由に。
めいめいで好きなもの頼んで」
と言っておきながら

10名中9名が
醤油ラーメン一択、で
同調圧力をかけてくる
グループ。

そこで
「じゃ、私は味噌ラーメンで」
というと、あとから
「なんやの、あの人」
と陰口たたくグループ。

「おのおの、好きなものを」
と言っておきながら
そんな気持ちなど微塵もなくて

「みんなとおんなじ」かどうか、
相手をためしている
相手を品定めしている

そんな連中とは
ビジネス上ならば
割り切って合わせるが
プライベートでは

生理的に受けつけないのが

筆者の考え方である。
絶対にムリ。

それで嫌われるならば
「いや、アンタに好かれたくて
生きてるわけじゃないんで」

と、胸を張って言える。

これが
「嫌われる勇気」
の本質だと思う。

「幸せになる勇気」は
これよりもっと
ハードルが高い。

まず第一に
「で、なにが幸せなの?」
ときかれて

「えっ?」となり
こたえられない人が
あまりにも多すぎる。
 
私ならば
・夜寝て、朝起きる場所があれば幸せ
・ありがとうとごめんなさいを言える相手がいれば幸せ

程度の認識だ。

仕事が終わって
「お疲れ様でした、またね!」
で、わかれて
明日、また、あえる相手がいるなら
ものすごく幸せな
生活だと思ってる。

詳しいことはちょっと言えないのだけど
「なるほどなぁ」と思ったことが
最近あって

いまの人、
いまの若い人って
「幸せ」というものが
「他人と比べ」て、「幸せ」
なのかどうか?

って価値観の人が
すごく増えてきていて
これは
明らかに間違っているし
おかしいことである、と

筆者は考えている。

お亡くなりになったけど
樹木希林という女優さんが
いらっしゃって

彼女の言ってたことで
私自身すごく合点のいった
言葉なのだけども

「人様と比べる、なんてことはね、
すごく、はしたないこと
なのよ。
昔はそういうことを
教えてくれる大人がいたけど
いまは居なくなった」

という言葉があって
「そうそう、そうなんだよ!」
と、膝をたたいて
私なんかは納得した。

私が10代の頃は
携帯電話どころか
インターネットすら
ない時代だったから

そのおかげでラッキーだった、と
いうしかないのだけども

若い人からの悩み事相談で

「ツイッターとか
ラインとか
フェイスブックとか
見てると
自分よりキラキラしてて
自分より幸せで
自分よりイキイキしてる人ばかりで
なんだか、
生きてて、
自分がミジメになる」

と打ち明けられて
目がテンになった。

私の年齢の半分以下の歳で

若さも自由も将来も
ありあまるほどあって
外見、学歴でみたら
人生の偏差値70ぐらいの
恵まれた環境で生きていて、これ

なのだ。

話をもどす。

「人様と比べるだなんて、はしたないこと」

これは本当にそう思う。

他人と比べて

自分より「上」だと思う人をみて
自分はミジメだと嘆息したり
他人に嫉妬してみたり、とか

自分より「下」だと思う人をさがして
自分はマシだとなぐさめようとしたり
他人を見下してバカにしたり、とか

どちらも
みっともなくて
恥ずかしい
ことなのは明らかである。

少なくとも私なんかは
他人と比べて生きてたら
まったく頑張れないし
努力する気すら
起こらなくなると思う。

自分より
優れた人
才能ある人
めぐまれてる人は
世の中には無数にいて

彼らとイチイチ比べていたら
自分がミジメになるだけだ
とわかっているからである。

・おはようとおやすみを言う相手がいる
・ありがとうとごめんなさいを言える相手がいる
・明日はもうちょい、頑張れるかな?と思って寝れる

この3つがそろってれば
だいたい、その人は
幸せな人だと思うし
その意味では
私はとても幸せな人間である。

うん、胸を張って
「私は幸せ者です」と
断言できる。

「あれ?俺って意外と幸せなんじゃね?」

幸せを受け止めて
幸せを受け入れてみる

ってのは
他人から嫌われるのを受け入れる勇気より
ずっと難しいし
勇気がいるのではなかろうか?

最近、とみに増えてきている傾向だが

・自己満足

・向上心

無い証拠だ
と決めつけて
断罪しようとするバカが

最近、ふえすぎた。

断言してもいい、
自己満足と向上心は両立できる。

頑張った自分を
まずは、ほめてやって
その上で
「あしたは、もっとがんばれるハズ」
と思って笑顔で床につけれたら
それで万々歳ではないか。

頑張った自分を
ほめる、という行為は
向上心が足りない証拠だ

などという輩は
例外なくバカだと
私なんかは思っている。

一日の終わり、
寝る前に
「自分はやりきった」
「頑張った自分をほめてやりたい」
そう思えたら「勝ち」だし
そういう努力を
めざすのが
人が生きてる意味だったり、
価値である、と
私は考えてる。

努力とか、頑張りは
他人から評価されたり
認めてもらうために
するものではない、と思う。

だから、私なんかは
「オマエを認めない」とか
言われたら
「アンタに認められたくて生きてるわけじゃないから別にいいっす!」
と応えるのだけども
大抵の場合

「わしゃ、アンタの親のカタキか?」
ってぐらい
相手から逆恨みされる(笑)

こういう人らは
得てして
誰かを否定することで
自分を保とうとしていたり

「、、、したら認めてやってもいい」
とか、相手を支配し
意のままに操るために
条件提示しているかの
どちらかであって

どちらも
気づいた時点で
全力で縁切るか、逃げた方が
良い相手である。

特にこの手の
マウンティング系の連中から

「おまえ、それでいいと思ってるのか?」
とか
「いまのままでいいとおもってるのか?」
とか

言われたら
私なんかは
「それでいいと思ってます!」
「いまのままでいいと思ってます!」

と即答する(笑)

自分の人生に
自分で責任を負ってるんだから
あたりまえだ。

「いいや、オマエは間違ってる」
とか食い下がってきたら

「じゃ、アンタの言うとおりにしたら
こっちは年間1500万ぐらい手取り年収
減るけど、補填してくれるの?」

と、こっちが言うと
この時点で9割強は逃げる(笑)

「いや、こっちはオマエのことを思って」
と、それでも食い下がってきたら

「相手の人生に責任を負わずに
口出しだけする、って
これのどこに相手に対する
敬意とか愛情がありますの?
ヤリ逃げですやん」

これを言ったら
鬼の形相をされたことが
筆者には
過去に何度かある(笑)

捨てゼリフとして
「オマエは自分さえ良ければそれでいいんだな」

と言われて

「まずは自分が幸せにならんといて
どうやって他人様を幸せに
できますのん?
自分を殺して滅私奉公して
他人の言いなりなって
他人の食い物にされてろ、と?
まっぴらゴメンですわ(笑)」

そう応えたら
本当に
「わしゃ、アンタの親のカタキか?」
ってレベルの
憎悪の表情でにらまれたことが
筆者には
過去に何度かある(笑)

いまだから
笑って言えることだが
こうやって
書き出してみると

意外と
人間ってのは

幸福を手にするには

勇気がいると思う。

「オマエ、これでいいと思って生きてんのか?」


人のココロに土足で
あがりこんでくるような
失礼な質問をされたときに

「うるせーんだよ、馬鹿野郎」と
内心、思いつつも

笑顔で

「はい、これでいいと思って生きてるし
これからもこれで生きていきます(笑)」

って
胸を張って即答できる人が
世の中に
いったい
どれくらいいるだろう?

幸せになる勇気

ってそういうことなんだと思う。

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