丸谷先生の思い出。

大阪に淀川工科高校という公立の
工業高校があります。

昨年の12月に顧問の丸谷先生が
お亡くなりになりました。

47歳の私が生まれる前から
ヨドコウを全国大会に引っ張って
指揮ふってた先生です。

ヨドコウの吹奏楽部の
一番すぐれている点は

ひとつひとつの音が
ひとりひとりの奏者の音が
きわめて自発的だということ、

これにつきます。

「やらされてる」という感じが
微塵もありません。
まったく無いです。

心の底から湧き上がる音楽
とでも申しましょうか、
そんな感じです。

これには
部員ひとりひとりの
血のにじむような努力と
指揮者と奏者たちとの
揺るぎない信頼関係がないと
成立しません。

血のにじむような努力はするけど
そこに悲壮感はないというか、
むしろ明るく楽しくやっている
というのもヨドコウの特長です。

「良い演奏をするには苦労せんといかん」

というのが
伝統的に染みついていて
それを部員らも共有している、というか
そんな感じです。

しんどい思いをして練習した結果
本番で良い演奏ができると
やはりうれしいものです。

そういうことの積み重ねが
自信につながります。
ヨドコウの強みはそこですね。

丸谷先生の指揮を見ていると
本当に部員全員から
信頼されている、
揺るがない信頼関係がある

っていうのが演奏から
ひしひしと伝わってきて
そこは、うらやましいなぁ、と
いつも思っておりました。

あれだけシンドい練習してるのに
生徒らはいつもニコニコしています。
そういのって良いですよね。

生前の丸谷先生の
おっしゃってた言葉の中で
私自身、とりわけ心に残ってるのは

「生徒を自分の欲望をかなえるための
『道具』として見てはいかん」

という言葉でした。
結構、グサリときました。

私自身、子どもに勉強を教えることを
生業としているので
この言葉は本当に重いです。

最初から正解を与えてるだけなら
効率よく成績は伸びますが
そればかりだと生徒は
自分で考えることをやめてしまいます。

そして、そういうことが続くと
生徒にとって
勉強する、ということが
「やらされてる」ものに
なってしまいます。

これは恐ろしいことなんですよ。

知識も経験も
教えてるこっちのほうが
圧倒的にありますから

「オマエは俺の言われた通りに
やってればいいんだ!」

という
やり方をしだしたら、それは

生徒を
自分の欲望をみたすための
「道具」としか
みていない、

ということになります。

これは人にモノを教える人間なら
誰にでもおちいりうる
失敗です。

そして、そういうやり方は
教えてる側からしたら
楽なんです。

なので
そういう方向へ逃げたくなる
欲望は教育者ならば
誰でも経験します。

丸谷先生の指摘は
教える側の人間の
弱みをズバリ的確に
突いていると思いました。

ヨドコウの音楽の自主性は

一見、遠回りに見えても

教える側と
教わる側と
コツコツ、コツコツ

互いを認めながら
話し合い、語り合い、衝突しあい
試行錯誤してきた努力の

たまものです。

だからヨドコウの音楽は
素晴らしいのです。

生徒の自主性を引き出すのは
並大抵のことではありません。

丸谷先生が尊敬されてたのは
それができる人
だったからです。

繰り返しますが
ヨドコウの音楽は
「やらされてる音楽」
ではありません、

心の底から
湧き上がる
音楽です。

そういう自主的な音楽の方向性
の構築というのは

教える側の
永遠のテーマですね。

自戒の意味を込めて
私はいつも自問自答
しています

私は生徒のことを
自分の欲望をみたすための
「道具」として見ていないか?
「道具」として扱ってないか?

絶対にそうあってはならないのです。

それを教えてくれたのは
丸谷先生でした。

丸谷先生
永い間、
本当にお疲れ様でした
ありがとうございました。

先生は私の心の中で
今も生きてます。

本当にありがとうございました。

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