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暗澹

私は気が弱くなっていた。
耳を澄ましたが、教室からは不気味なほど何も聞こえない。足がすくむ。両手は胸の前でぎゅっと握りしめられ、一向にドアの方へと伸ばされない。
私は踵を返した。階段を下って1階に降り、またその外階段を下った。運動場を一瞥した後、開きっぱの鉄格子の扉へ向かう。誰にも見られないようにと細心の注意を払いつつ(単に意味もなく身を少し縮こませているだけであったが)、ついには学校を飛び出した。

「おー!おはよう」
「お、おはよぉ!」
同じクラスのYさんだ。なんという偶然だろうか。
「私、二限から行こうかなあって思ってて…」
「私もどうしようか、ここを一周しようかなとか考えてたところ!」
彼女は気さくな笑みを浮かべた。
「でも、私、もう行こうかな。あ、このことは内緒にしとくから!」
とキラキラした笑顔のまま言った。
「うん、ありがとう。じゃあまた」
私は手を振ると、短い橋を渡って、坂を登り、ロープウェイ乗り場に隣接する小さな公園へ向かった。

公園にはイチョウの木があって、あたたかい黄色の葉が風に揺れていた。公園のベンチに重たいリュックを置いて、その隣にストンと座る。私は深く息をはくと、今起こったことを思い返した。彼女は、私の心の中へは入ってこないのに、親しみやすい印象を常に感じさせた。
初めこそ、私は彼女の、内緒にしとくから!という言葉に胸をときめかせていた。幼少に読んだ漫画とか小説とかでしか聞かないような、そんな台詞にドキドキしていたのだ。ああ、これは惚れないではいられないな、などと半ばお気楽であった。しかし、そんな心踊るような出来事も、すぐさま暗い日陰の、ジメッとした土のように私にのし掛かってくるのだ。私は気が弱くなっていた。

私は10月に入った辺りから、遅刻や欠席を重ねていた。今朝も私は目覚ましのアラーム音に気づかず、母親に声をかけられてようやく朝だと理解し、この世の全ての悪いものから逃げるような気分で布団の中でいつまでもぐずぐずとやっていた。なんだかんだと教室の前に着いたのだが、授業の途中にガラガラと扉を開けて入る勇気を出せず、逃げるかのように学校を出たのだ。
彼女は今ごろ自分の席について、授業を受けているだろうか。そう思うと、私の彼女への明るい気持ちが、全て自分自身への情けなさや惨めさへと変わって、心の中に無遠慮にも入り込み、強烈に刺した。

さっきから山にいる、私の知らない虫がこっちを向いてホバリングしている。私は虫が怖い。ベンチから立ち上がり、少し離れ、虫がどこかへ行ったらまたベンチに座る、ということをそれから三度繰り返した。二限が始まるまでにあと十数分ほどあったが、虫とするこのやり取りにうんざりして、仕方なく公園を出た。私はダラダラと学校へ向かうことでなんとか時間を潰した。

一限が終わるチャイムが鳴る中階段を登っていると、偶然担任のH先生とすれ違った。先生は私の名前を呼ぶと、
「ちゃんと一限から来いよ。」
と咎めた。目に余る私の遅刻欠席数を考えれば、また彼は先生であるのだから、これは至極当然のことだった。
「はい、すみません。」
私は苦笑混じりに答え、そのまま教室へ向かった。休み時間はみんなそれぞれに友人同士集まって談笑している人がほとんどであった。彼女もいつものように、彼女の友人たちとお喋りしていた。私はと言うと、友人と呼べるような人はいないので、お茶を飲んだり、次の授業の準備やら配られたプリントの整理やらをして過ごした。一人でいることが私を惨めにするのか?それとも優秀な人たちに囲まれていることか?友人が一人でもいれば、毎朝起きれるものなのだろうか───余計なことを考えたりもした。

私が彼女に恋をしようが、私が彼女に劣等感を抱いて惨めになって泣こうが、何をしても、どうということもないのだ。全てが私の中で完結し、そういうあれこれに心の外を出歩かせようとしない。私は消極的どころか内向的で、自己完結的で、勝手にひとりで苦しんでいる、惨めで弱い人間だ。自分がひたすら情けなくて、顔を真っ直ぐに向いて歩くことができない。いつも俯いているか、空を見上げている。最近は下校時に月がよく見えるようになったので、それを見ることにやっきになっている。そんな私に向けた彼女の笑顔が本物であったことだけが、暗闇を照らす一筋の光のように思え、それに縋って今日を乗り越えた。

今日美しかったもの、イチョウの木、彼女の笑顔、ふっくらと白い月。

この世の全ての悪いものとは無縁のものだと思った。私をひとつも苦しくさせないのだ。

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