バキバキに折れた筆を動かす

文章が書けない
何かを見ても単純な感想しか浮かんでこず、文が先に進まない。
どうにか膨らませてみても奇形にしかならない。
 ただの奇形には何の価値もない。
ある意味では芸術も奇形だがそれは緻密な計算の上にある。
対してこちらはただ闇雲に文字を繋げてみただけで何の魅力もありはしない。
 そんなだったらやめてしまえばいいのはわかっている。書いたところで碌なものもできず読んだ人の時間を浪費させるだけだし、何より自分もたいして楽しくない。
自分の無知とくだらなさを再確認するだけなのだから当たり前だ。
 じゃあなぜ今書いているのか。それは単純に憧れてるからだ。
文章を書く人だけでない。何かを生み出せる人になりたいからだ。
何かを作れる人は素晴らしい。作品で何かを表せる技術だけでなく、何かを表せるようになるまでその表現手法を学び続ける執念が美しいと思う。
それに比べて自分はどうだ。当初は毎日書くつもりだったのに今や月2回だ。
執念なんて欠片もない。感性も鈍いのに手も動かさないでどうするんだ。
そうは言っても書けないものは書けない。そもそも感性が鈍ければ書こうにも何も浮かばないのだから仕方ないだろう。
感性は磨くものだとも聞くがそれも難しい。なぜならクソ田舎には美術館なんてものはないからだ。それじゃあこんな無機質な人間が生まれるのも自明だ。
 いや何も文を書くのに感性は必要ない。つまるところ言葉を自然に繋げられればいいのだから。なら人と話せば良い。瞬時に言葉を繋げることが強いられる会話はこの上ない文章作成の練習になる。
 本気で言っているのか。お前が大学に入ってからまともに会話できたことがあるか。
無いだろ。確かに表面上はまともだったかもしれないが何も楽しくなかっただろ。
表に出せるような当たり障りのない情報を規定された繋ぎ方で提供するだけの作業に何の意味があるんだ。そもそもただの会話で文章が書けるようになるなら世の中は小説家で溢れているはずだ。そうなってなくて文系が馬鹿にされているのが何よりの証拠だろ。
 じゃあどうするんだ。将来働こうにもスーツを着るのも愛想笑いを浮かべるのも虫唾が走る。そのくせ何かを作ろうにも碌なものは何一つ作れない。だからと言って野垂れ死にたくもない。結局文章を書くことしかできないじゃないか。文章が褒められたことが一度もなくても縋れるのは人より少しばかり多い知識しかないじゃないか。
 手始めに好きなものについてでも書いてみよう。自分が美しいと思うものについて語っているときは、外部の喧しい刺激に転がって喚き散らすしか脳がないやつの耳障りな声も少しは聞けるようになるはずだから。

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