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【エッセー】幻の絵

この作品は、ノンフィクションのエッセーです。
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先日、友人と大阪中之島美術館へ行った。一緒に行ったとは言っても、各々自分のペースで観て回ったため、実際はひとりで黙って絵を観ていたのだが。

 展示されていたのは近代の日本画だった。私はこれまでろくに美術に触れたことがなく、正直どこがどうすごいのか、解説のキャプションを読んでもピンとこない。

 むしろ絵の解説よりも、「生まれつき両手が麻痺していたので両手の間に筆を挟んで描いた」とか、「不良の事故で片手を失っていた」とか、「大阪から東京へ上京したが、東京の食事が口に合わず、すぐに大阪へ戻った」とか、そういうエピソードの方が私にとっては興味深いものだった。

 せめてお気に入りの絵でも見つけようとして唯一目に留まったのは、菅楯彦『高津宮秋景』。
 地味でグッズショップでも取り上げられていない絵だったが、惹き付けられる何かを感じた。
 薄暗がりの秋の夕暮れに優しい灯り。行き交う人々。まばたきすれば、すうっと流れ星のように消えてしまいそうな。儚いタッチと色合いの絵だった。
 生きているようで死んでいる、死んでいるのに生きているような、なんとも言えない、だがたしかに存在感のある絵だった。

 周囲の人々がほとんど通りすぎていく中で、私はそこにしばらく突っ立って眺めていた。だがどれだけ目を凝らしても、私はその絵を完璧に焼き付けることは出来なかった。

 絵を見終わって食事をしながら、友人と感想を話した。どの作品がよかったかと訪ねると、友人は出展作品が一覧になった紙の冊子を取り出した。気になった作品にペンでチェックをつけたという。

 赤ペンで丸をつけられた作品名を見てみると、友人も同じ作品が目についたらしい。館内は撮影禁止だったため、私たちはその絵を思いだそうとネットで画像を検索してが、その絵は出てこなかった。

 ひょっとすると私たちは、幻を見ていたのかもしれない。それくらい、消えてしまいそうな絵だった。
 
そんなくだらないことを考えていると、オシャレなクロワッサンサンドが給仕された。口にいれると私は今この瞬間が幻などではなく、ちゃんと現実であることを再認識した。

 うまい。それだけで、私はもう絵などどうでもよかった。

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