【短編小説】レスカ
この作品は短編小説です。
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「レスカください」
「え?」
暑いからと入った喫茶店で、お父さんが当たり前のようにそう注文した。それが、僕ががレスカというものを初めて知った日だった。
「お父さん、レスカってなに?」
「なんだお前、知らないのか。レスカっていうのは、レモンスカッシュのことだ。すっぱくてしゅわしゅわしてて、おいしいぞー」
「え、僕も飲んでみたい」
「おう、いいぞ」
運ばれてきたレスカは、ずんぐりむっくりした、だらしないおじさんみたいな感じの容器に入ってた。さくらんぼと輪切りのレモンが一枚浮かんでいる。薄く黄色い液体はしゅわしゅわと泡を出していて、なんだかお日さまのように輝いて見えた。これが、レスカか。
「ほら、飲んでみろ」
父さんがストローを一本入れて、目の前に置いてくれた。
「いただきまーす」
口に触れた瞬間、泡が弾けた。いたずら好きの子どもが、ティンパニでも叩いて演奏しているみたいに乱暴だった。私はこのとき初めて炭酸水というものを飲んだのだ。
中に入ってきた液体は冷たくて、渇いた喉を潤してくれる。けど、とてもすっぱい。ちょっぴり苦い。このジュースは腐ってるんじゃないか。こんなものを飲む人の気が知れない。甘いりんごジュースのようなものを期待していた私は、すぐにむせてしまった。
「けほっけほっ……」
「おいおい、大丈夫か?」
「これ、腐ってるよ。全然甘くない」
「腐ってないって。こういう味なの」
そう言って父さんは僕の前にあったグラスを持ち上げて、グビッと喉仏を踊らせた。
「うーん、うまい! やっぱ暑いときにはこれに限るなあ」
「よく分かんないや」
「お前には、まだ早かったかもな」
そう言って父さんは笑った。
それから十数年。僕は大学生になっていた。大学の近くにはこじゃれた喫茶店があり、暇をもて余した学生たちは大概そこにいた。
この店にはレスカがある。初めて来店したときに友人の前で「レスカあるね」と言ったとき、「レモンスカッシュのことレスカって呼んでんの? だっせえな。そんな呼び方してるのおじさんだけだぞ。若いやつはレモンスカッシュすら知らねえってのに」と笑われたことは、一生忘れない。
それ以来、僕は人前でもう二度と人前でレスカと言うまいと誓ったのだ。
ある日僕は、友人とそこで待ち合わせをしていたのだが、「寝坊したからやめとくわ」と通知がきた。大学生なんて、こういうものだ。別に怒りもしない。「了解」のスタンプを押して、ため息をつく。
暇だなあ。
「あの、レスカ……ください」
「え?」
その言葉に反応してスマホから顔を上げると、そこには同い年くらいの女子学生が一人で隅っこの席に座っていた。初老のマスターは当たり前のように「はいよ」と言って、中へ入ってしまった。
その女性と一瞬目があった。そこで僕は自分が声を上げてしまったことに気がついた。女性は恥ずかしそうに俯いた。悪いことをしてしまったな。声を上げてしまったことの恥ずかしさと、女性への申し訳なさで、私も俯いてしまった。
その時私の心は今あのレスカのようにしゅわしゅわしていた。くそ食らえだと思った青春だとかいうすっぱくて飲めたもんじゃないあのキラキラしたまぶしい液体を飲み干さんとしていた。
「あの、すみません」
手を挙げると、マスターがのすのすとやってきた。
「はい、ご注文は?」
あの日から一度も飲んだことはなかったけれど、今なら飲めるかもしれない。
「レスカください」
「え?」
今度は女性の方が小さく声を上げた。
「はい、レスカね」
マスターはまた引っ込んでしまった。
また、彼女と目があった。
「レスカ、お好きなんですか?」
なんとなく、聞いてみる。
「ええ、まあ。父親が好きだったんです」
「僕も、そうです。親父が好きだったんです」
「ついつい、レスカって言っちゃいますよね」
「ですね」
彼女と交わした言葉はそれだけだった。
まもなく、彼女のレスカと僕のレスカが運ばれてくる。久しぶりにみたレスカは、やはり眩しかった。
恐る恐る、少しだけ口に含む。慎重に味を確かめるように、味わう。正直、やはり飲めたものではなかった。すっぱくて顔をしかめたまま顔を上げると、彼女も同じような顔をしていた。目があって、少し笑った。
レスカのような人だな。そう思った。
まだその美味しさは分からないけれど、気が向いたら、またレスカを飲んでみようか。
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