見出し画像

狂骨の釘

落語:粗忽の釘
妖怪:狂骨(きょうこつ)

狂骨は、井戸で死んだ者の霊が骨に宿った妖怪だ。井戸に落ちてしまったのか、殺されて井戸に投げ込まれたのか、それはわからない。いずれにしても激しいうらみを持って死んだ者たちだ。霊が成仏できずにあの世とこの世の間でさまよい続け、やがて土地に憑く地縛霊になる。そして、井戸の中に残る骨に取り憑いて、妖怪化したものと考えられる。狂骨に取り憑かれると、他人をものすごくうらむようになってしまうという。
妖怪ビジュアル大図鑑/水木しげる

ただでさえ陽当たりも風通しも悪い裏長屋に“出る”と噂の部屋がある。
あれは山姥だという者もいれば、あれは死神だという者もいる。また姿は見えずとも、夜中に女の声が聞こえるという怪奇は皆一様である。
怨念のこもったその声は耳を塞いでもまるで隣にいるかのように響き、一晩中まとわりつかれて参ってしまうと店子が三日と居着かない。
困り果てた大家は、怪我のため大工を休業している甥の熊吉を住まわせることにした。
この甥、肝が据わっているというか鈍いというか。
幽霊が出ると伝えても箪笥が備え付いていると聞いたような反応だ。

熊吉が越してきた日の晩。
「恨みはらさでおくべきか……」
早速、おどろおどろしい声がこだまする。
しかし眠れないほどではない。
熊吉は目を閉じた。
「この恨み……」
寝つきの良い熊吉はすでにいびきをかいている。
「……おくべきかあああ!!」
突然耳元で大声を出されて熊吉は飛び起きた。
「幽霊さんさあ、夜な夜な繰り返すくらいならいっそ恨みはらしなさいよ。俺はいいと思うよ」
熊吉はひとり頷き、再び横になった。
すると先程とは打って変わって小さな声が応えた。
「そんな風に言われたの初めて……」
「そうかい。俺は熊吉ってんだ。あんた名前は?」
「たまき……」
「へえ、良い名だ。たまきさんは誰を恨んでいるんだい?」
「私をこんなふうにしたやつ……かな」
「もしかして殺されたのかい?」
「分からない……思い出せないの……」
「憎い相手が分からないのか。そりゃあ成仏できないわけだ。俺の叔父さんが大家だから、この長屋で何か事件でもあったか聞いてみるよ。たまきさん歳はいくつだい?」
「たぶん17か8……」
「そんな若くして亡くなっちまったのか!さぞかし無念だったろう」
熊吉が気の毒そうに言うと、暗闇にぼんやりと姿が浮かんできた。若い女かと思ったが、色褪せた髪とぼろぼろの着物を身につけた骸骨であった。
熊吉は恐ろしさよりもいたたまれない気持ちになった。
ーー哀れじゃないか。若い女がこんな姿で。

次の日の夜、熊吉はとりあえず床に就いた。
すると待っていたかのように「恨めしや」とおざなりな声とともに骸骨が現れた。
「おい、あんたおたまさんだろ?おたま婆さんって呼ばれてただろ?」
「なにを……私は18歳で……」
「寝たきりになってから、すっかり自分のことを若い娘だと思い込んじまったらしいんだな。この部屋で長く暮らして亡くなったのはおたまさんだけだって。この辺りでいちばんの長寿、大往生だったって話だよ。おたま婆さん」
「あ?なんだって?」
「急に耳が遠くなってやがる。あんたは誰かに殺されたわけじゃない。安心して成仏してくれ」
「そんな気がしてた……でも引っかかる……」
「今度はなんだ?」
「死ぬ前に赤ん坊を見たの……あれは私が産んだ息子だと思ってたんだけど……」
「おたまさんの息子ならもういい歳だろう。本当に赤ん坊がいたのかい?」
「ああ、あの子のことが心配で心配で……どうしているのか知りたい……」
「おたまさんの息子かあ。分かった、そのへんのことも聞いてくるよ」
骨になっても断ち切れないのが子への思いなら。
ーー叶えてやりたいじゃないか。親の願いを。

そしてまた次の夜。
「おたま!こら!出てこい!」
「うらっ……あっ……」
熊吉の剣幕に骸骨が恐る恐る現れた。
「よく聞け!おたまさんは早くに旦那を亡くしたけれど、女手一つで息子を育てあげたってよ。息子は植木職人だ。おたまさんが寝付くようになってからも甲斐甲斐しく面倒をみてくれた優しい息子だ。忘れるなよ!」
「あら、そうだったかしら……」
「ついでにとうの昔に所帯を持っていて、おたまさんを家に引き取りたいって言うのを、おたまさん自身が断ったんだと。息子と嫁と孫と長屋の住人が入れ替わりでおたまさんの面倒を見たってよ。あんたこれ以上ないくらい恵まれているじゃないか」
「孫……?」
「そうだ。孫っていってももう嫁にいってる。おたまさんが最後に見た赤ん坊はその孫の子どもじゃないか」
「つまり、ひ孫……?」
「そう。孫は産後の肥立ちが悪くてなかなか会いに来られなかったそうだ。ようやく子どもをおたまさんに会わせることができたのが亡くなる前日だったんだって」
「長生きしたのねえ私……」
「おたまさん、あんた大したもんだよ」
「へへっそれほどでも……」
「でもそうなるとますます分からないな。どうしておたまさんは骨の幽霊になってさまよっているんだろう」
「うーん、何か忘れているような……」
「ひとつ気になったのは、おたまさんが亡くなった時に釘を握りしめていたってことだけど」
「あっ……」
「心当たりがあるんだね?」
「寝ていたら壁の釘が抜けてぽとりと落ちたんだ。赤ん坊は何でも口に入れてしまうからね。危ないと思って手を伸ばして……」
「そのまま逝ってしまったのか。安心しな。あんたのひ孫ももう手習いに通うほど大きくなってる。釘を誤って飲んだりはしないよ」
「ああ……心残りがあると思っていたけど釘だったとは……」
「恨みや未練じゃなかったんだ。良かったじゃないか」
「長屋に越してきた人を脅かし続けて……とんだ無駄骨だった……」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?