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まんじゅう狐者異

落語:まんじゅうこわい
妖怪:狐者異(こわい)

狐者異は高慢強情の別名にして、下世話に言うところの無分別者のことである。
生きているうちは法を無視して人を恐れることなく人のものを取り食らい、死んだ後は妄念執着の思いを引いて無量の形を顕し、仏法世法の妨げをなす。
(中略)
世に恐ろしい事を「こわい」と言うのは、ここから出た詞である。
「絵本百物語」-桃山人夜話ー/竹原春泉

噂話に事欠かない江戸の人々の間で、今もっとも口の端に上るのが「まんじゅう騒動」である。
菓子屋でまんじゅうばかりが狙われる奇妙な事件なのだが、売り物のまんじゅうを残らず食い尽くされた店もあれば、ひと口齧っただけで捨てられた店もあり、また同じ店には二度と現れないことから、事件といえど菓子屋の評判を左右する番付のような扱いであった。

それでも人の犯行であったなら奉行所に恃み、それ相応の罪になるだろうが、どうもそうではないらしい。
被害にあった菓子司の手代が「あれは狐者異(こわい)の仕業だ」と証言して寝込んでしまった。
他に目撃者はおらず、昼夜人が目を離した隙の犯行であることも妖怪説の拠り所となった。
恐れ慄いているのは当の菓子屋で、得体の知れない妖怪に売り物をダメにされた挙句、店の評判まで落とすかもしれないという二重苦に晒されている。

「おとっつあんは日ごと苛々して客と喧嘩しちまうし、おっかさんも元気がねえ。これじゃあ狐者異が出る前に店が傾いちまう」
幼なじみの吉坊が半泣きで訴えてきた。
吉坊の家は小さな菓子屋で、ふた親と吉坊の三人で切り盛りしている。
「吉坊のおとっつあんが作るまんじゅうは、ただでさえ客を選ぶもんなあ」
そのまんじゅうを子どもの頃から食べてきた太助は苦笑いで答えた。
ーー初めて他の店のまんじゅうを食べた時の感動たるや。

「うちは他の菓子屋じゃ浮いてしまうような客ばっかり来るんだ。ほら、あの御隠居も常連だ。こんな明るいうちから真っ赤になっちゃって。よくあんな千鳥足で歩けるもんだ」
「吉坊、おまえまで苛ついてどうする。要は、まんじゅうが食い尽くされればいいんだろ。簡単じゃねえか」
吉坊が目を輝かせて太助を見る。
「何かいい案があるのかい?」
「狐者異が出るのは人が不在の時って話だ。だから吉坊が店番する時にわざといなくなるんだ。俺がこっそり見張ってやる」
「それで?取っ捕まえるの?」
「いいや。もしひと口齧って捨てるようならそれを拾って誰の目にも触れさせない。残ったまんじゅうは食い尽くされたことにして隠しちまおう。二度は現れないから狐者異も認めた店ってことになる。でも俺が思うに……」

数日後、客足が途絶えた時間に、わざとまんじゅうを目立つ場所に置いて吉坊は店の奥に引っ込んだ。
太助は店の隅で筵(むしろ)をかぶり、息を潜めた。

入口ばかりを見張っていたが、つとまんじゅうに目をやると誰かが立っている。
はだけた着物に痩せた身体。ぎょろっとした目を血走らせ、涎を垂らしている。これがーー

狐者異は乱暴にまんじゅうを掴み、食らいついた。
そして手に持ったまんじゅうをじっと見つめ、首を傾げた。
太助には狐者異が混乱しているのが分かった。

ーーそうなんだ。不味いわけじゃないんだ。ちっとも甘くなくて菓子とは思えないけど、小豆の味がちゃんとしてて、これはこれで癖になるんだ。

太助は筵から勢いよく飛び出し、それまで大事に抱えていたやかんを差し出した。
中には吉坊の父親が大好きな酒がたっぷり入っている。
湯呑みに注ぎ、狐者異に突きつけた。
「これ飲みながら食ってみろ」
狐者異は湯呑みを奪い取り、一気に煽った。
目を見開いて唸ったかと思えば、次のまんじゅうに手を伸ばした。
太助はせっせと湯呑みに酒を注ぎ、狐者異がまんじゅうを平らげるのを手伝った。

まんじゅうも酒もすべておさめた腹は側から見ても大きく膨らみ、足元をふらつかせながら店を出たところで狐者異は倒れた。
ちょうど通りかかった棒手振りが悲鳴を上げた。
人が集まり、その異形を取り囲んでいたが、町同心が駆け付けた時には煙のように消えてしまっていた。

この一件で、狐者異を撃退したまんじゅうとして有名になった店はかつてないほど繁盛した。
しかし大方の客は二度とは訪れず、一部、吉坊の言うところの“他の菓子屋じゃ浮いてしまうような客”が増えた。

今日も鼻歌交じりのご機嫌な客が店にやってきた。
「これかい?酒が進むまんじゅうってのは」
「へえ、それはもうこわいくらいに」

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