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ろくろ首女房

落語:ろくろ首
妖怪:ろくろ首

首だけがどこまでも伸びる妖怪。だれもが寝静まった夜中に、首をニューッと伸ばして獲物をさがしまわる。一説によると、男の精気を吸い取ってしまうのだといわれている。
首が伸びるのは夜だけで、昼間はふつうの女性の姿だ。だから妖怪かどうかの区別がつきにくいが
ある人によると、ろくろ首の首には、かならず紫色の筋があるのだという。

「妖怪ビジュアル大図鑑」/水木しげる

ーーまた今夜もか。もう嫌だ。
与太郎は夜着を頭まですっぽりとかぶり、固く目を閉じた。
ぴちゃぴちゃと音が聞こえる。
与太郎のとなりで女房が寝ている。
正確に言うならば女房の身体が寝ている。
そして顔は与太郎を越えて、行燈へ向かい油を舐めている。
日中の、器量の良い物静かな女房が、今この瞬間は与太郎を震え上がらせる。
夜中に首が伸びるくらい平気だと思った俺が馬鹿だった。
こんな女房ほかにいるか。不気味なことこの上ない。

その時、半鐘の音が響いた。
そう近くもないが、与太郎はこれ幸いとばかりに家を飛び出した。
今はただただ女房と離れたかった。

商家の屋敷が並ぶ通りの、一際燃えている問屋の前には逃げ出した人が集っていた。
その傍らでひとりの女中が手を擦り合わせながら泣いていた。
「千代が、千代がまだ……」

与太郎は屋敷に向かって走り出した。
表の店は炎で覆われているが、奥の座敷はまだ大丈夫そうだ。
風上の細い路地を進むと頭上から声がした。
「おまえさん」
ぎょっとして見上げると女房と目が合った。
見慣れた女房の顔があり、首をたどってみたが闇に紛れてどこから伸びているのか分からなかった。
「何をしているんです?」
「ち、千代って子がまだ中にいるんだ。助けてやらないと」
与太郎はばつが悪そうに答えた。
「じきにこちらにも火の手がまわりますよ。危険です」
「んなこと言ったって引き返すわけにはいかねえ」
女房はあたりを見渡し、このまままっすぐ進み板塀の一部破損している箇所から裏庭に入れると教えてくれた。
与太郎はなんなく裏庭に入り込み、探し叫んだ。
「お千代ー!いるなら返事をしてくれ」
しかし何度呼びかけでも座敷に人の気配はない。
「おまえさん、土蔵の戸前にいるのがそうじゃありませんか」
「なんだってそんなところに……って猫じゃねえか」
白毛に黒いぶちの入った猫がぐったりと横たわっていた。
女房が何やら話しかけて、この子が千代だと明言した。
「弱っているのか?」
「だいぶ歳をとっているので、ここまで逃げるので精一杯だったようです」
与太郎は千代を抱きかかえ、来た道を戻ろうとしたが女房に止められた。
破壊消火の火消しとかち合ってしまう。
「こちらです」
女房が与太郎を先導する。
亭主の3歩先、8尺上にある整えられた丸髷を見つめながら与太郎は思った。
こんな女房ほかにいるか。頼もしいことこの上ない。

猫の千代を女中の元へ返した与太郎は、そこにいた人々から一生分の賛辞と謝礼を浴び、足取り軽く家路についた。

ーー考えてみれば亭主が心配で火事の現場まで来てくれるなんて健気じゃねえか。顔に煤までつけて。俺の方はきれいなもんだ。
姿を見られたくないからと言って先に帰っちまったのも俺一人の手柄にするだめだろう。
あの女中がどれだけ喜んだか、千代がどれだけ愛されていたか、問屋の主人にどれだけ褒められたか、本来その言葉をかけられるはずだった女房に聞かせてやりたい。

気付けば走っていた。
その勢いのまま戸を開けると、女房が三つ指をついて出迎えてくれた。
「おまえさん、良い行いをなさいましたね」
その顔はつやつやと美しく、与太郎は大いに照れた。
「今日は助かったけど火事の現場に来るなんてやっぱり危ないからな。お前が怪我をしたら大変だ。だから、これからは家で待っといてくれよ」
「ええ、そうします。今日の火事は油問屋でしたから」

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