見出し画像

思い出の隔離室

それは、まだわたしに幻聴も妄想も発生していなかった頃のことだ。

8年ほど前に通院していた病院で、医療保護入院になった。
当時わたしは境界性人格障害と言われていた。
もともとうまくやれていなかったデイケアで、男性患者さんとトラブルを起こし、そのことが妄想だと誤診された。
主治医はわたしを隔離室に入れた。

誤診で隔離室に入れられた。
その現実は、わたしを冷静にした。
じっとおとなしく隔離室で過ごした。
最初の数日は、することもなく、とにかく眠った。

看護師のМさんに出会ったのは、隔離生活何日目だっただろう。
初めて会ったとき、Мさんはわたしにきつくあたった。
トラブルメーカーの境界性人格障害、厳しくしなければ、という思いがあったのだろうか。
けれど、わたしが数分隔離室から出ることを許され、電話で実家に本の差し入れを頼んだことをきっかけに、Мさんはわたしに本の話をするようになった。

Мさんは、ありとあらゆる本を読んでいた。
太宰治、夏目漱石、ドストエフスキー、トルストイ、あとはなんの話をしただろう。
わたしはМさんに
「ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟のアリョーシャは、父親が白痴の女性に産ませた弟のスメルジャコフのことを、ひどくバカにしていた。
アリョーシャはそんなにいいヤツじゃない」
と言った。
この話が通じたのは、今まで生きてきた人生で出会った人の中、Мさんたったひとりだ。

真夏だったから、その年は、山の日、盆なども隔離室で過ごした。
Мさんは、終戦記念日が近づくと、歴史について語った。
「アメリカは、自分たちに都合のよい歴史を作った。
アメリカは、メディアの発展が日本とは桁違いだった」
「一度、これが真実だ、という情報が広まってしまうと、それをくつがえすのには、恐ろしいほどの長い歳月がかかる」
わたしは、ときどき質問をさしはさみながら、Мさんの話を聞いていた。
わたしを、精神病患者として扱わず、対等に接してくれるМさんが、どんどん好きになっていた。

隣の隔離室には、暴れたり叫んだりする患者さんがいた。
看護師は、お隣さんは知的障害を持った人だと言った。
あぁ、お隣さんも、家族に捨てられたんだな。
お隣さんを気の毒に思った。
男性看護師たちは、お隣さんを脅しつけたり怒鳴ったりしていた。
けれどある夜、隣から、とても優しい声がした。
お隣さんに語りかけている。
お隣さんも、声の主を慕っているようだった。
隣に来ている看護師は、Мさんだ。
しばらく聞いていると、声でわかった。
Мさんは、重症患者さんにも、とっても優しい。
そう思うと、嬉しくなった。

隔離生活でわたしは弱っていった。
理由のない発熱が現れ、寝込むようになった。
早めの退院が許された。
隔離室からの退院だった。
入院した日が8月2日。
退院した日が8月23日。
3週間の入院生活は、ずっと隔離室だった。

退院後、深刻なPTSDに悩まされた。
正気の状態で3週間も閉じ込められた、ということは大きなトラウマになった。
けれど、それをPTSDだなんて言ったら、また医者に叱られるだろう。
「自分で勝手に病名をつけるな」

あれから8年経ったんだ。
もう、あの病院のことは、ほとんど思い出さない。
Мさんのことも、すっかり忘れていた。
どうして思い出したんだろう。
ゆうべの訪問看護師さんが
「僕はどんな患者さんにでも同じ態度で接しますけどね」
と言っていたからだろうか。

Мさんは、わたしより2歳年下だった。
今年48歳になるのだろう。
今でも読書をしているのだろうか。
どうだっていいよ、あのときだけの関わりだ。
そう思う半面、やっぱり元気でいてほしい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?