安芸高田市石丸市長を応援する人たち・ポピュリズムの時代(7)人々は市長の仕事という面では「空洞」の石丸市長をなぜ信奉するのか・まとめ

1.図らずも石丸市長の政策力を考えることになった
■悪いが、私の石丸市長歴は最初からである
 
私の石丸市長歴は長い。銀行を辞めて町に戻って、選挙に立候補したときからである。ブームになって、にわか石丸市長ファンになった人よりも、ずっと昔からである。だから、石丸市長の政策は、最初から見ている。
■驚くくらい「政策力がない」
 元応援団とすると、何とかよいところを探してあげたいが、あらためて考えてみてと、本当に驚くくらい内実がない。
 第5回で書いたように、独自のものも銀行における小さな体験に基づく「政策」でしかない。
 第3回で書いたように、世界で一番住みたいと思える安芸高田市を標榜するのはいいが、それを実現する独自の総合計画や個別計画もない。
 第2回で、唯一の成果と考えられる行政改革を取り上げたが、何よりも、削減して、浮いたお金で何をするというビジョンがない。これでは住民に希望を与えることができない。
 要するに、思いはあるのかもしれないが、それをカタチにする政策力が、著しく乏しいと言わざるを得ない。
■他者から学ぶことができない
 それは、銀行時代、学ぶ機会を与えられなかったという事情があるのではないか。30代というのは力をつける年代で、銀行でも銀行経営を支える企画や新しいプロジェクトを任されるときであるが、それがなかったのはないか。
 それで、市長になって、自らの企画力を存分に発揮できるチャンスになっても、どうしてよいか分からなくなったのだと思う。
 でも最初は、よく分からなくても仕方がない。それでも、市民と話たり、専門家と話せば、市長の仕事の勘どころは、すぐに理解できるはずである。
 しかし、石丸市長は、他人は教わることや学ぶことをしないから、ちっとも進歩しない。
■市民の力を引き出せない
 第2回で示したが、今の政策課題は、役所や議会だけでは解決できなものばかりである。にもかかわらず、委託費等のカット等で、せっかくの民間の力をどんどん切り捨てるという逆のことをやっている。
 市民と水平な関係で対話し、距離を詰めていくというコミュニケーションができないので、市民の力を活かせない、これは今の時代の基礎自治体の長としては最大の弱点だと思う。
■石丸市長人気はそうは続かないだろう 
 そうした石丸市長であるが、石丸市長を応援する人たちがたくさんいる。
 ただ、石丸市長人気は、一過性にとどまると思う。対立型・劇場型では、常に対立のもとになる火種を提供し続けなければいけないが、同じことでは飽きられるので、どんどんバージョンアップしなければいけない。実際、そう続けられるものではない。
 逆に、それをやればやるほど内実の空洞化が目立ってしまい、早晩、飽きられれしまうだろう。実際、最近では、石丸市長を引いてみる人が増えたような気がする。

2.なぜ石丸市長を信奉するのだろう
(1)動画を見て共感する心理
■動画を見て共感する心理の不思議

 応援団は、動画を見て、応援する気になるらしい。しかし、私は、その心理がまるで理解できない。私にとっては、動画の石丸市長は、あまりにも痛々しく、とても見続けることができない。にもかかわらず、応援団は、なぜ見続けることができるのか。
■いじめと同じ構造
 その心理は、いじめと同じ構造なのだろう。いじめは、自分の将来の夢が描けなかったり、 立ちはだかる厳しい現実をどう乗り越えたらよいのか分からなかったときに、そのいらいらや不安、あきらめが、いじめとなって現れるとされる。
 この動画を見て「痛快」に感じる人は、いじめと同じ状況や立場にいるのではないか。信奉者が多いということは、そうした不安やあきらめを感じている人が山ほどいるということではないか。日本の若者・中年たちは、そういう厳しい位置にいるということでもある。
■社会体験の乏しさ
 石丸市長の社会性の乏しさは、性格もあるだろうが、銀行に勤める以前の、おそらく大人になる揺籃期である青年期に、地域や社会とのかかわりが十分でなかったことにも起因するのではないか。
 地域や社会にはさまざまな人がいる。その中で、物事をすすめることを通して、人は「大人」になっていくという。そうした体験が十分あったのか。
 同じことは、石丸市長を応援する人たちにもいえるのではないか。
■私の関心は石丸市長を応援する人たちである
 私が気になるのは、市長の仕事という面では、まるで中身のない石丸市長なのに、あたかも地方自治の旗手かのように信奉する人たち(マスコミも含めて)がたくさんいるということである。
 彼らは、なぜ、乗せられるのか。それを考える前提として、石丸市長の政策力を考えてきた。
■私の危機感
 言うまでもないことであるが、私たちの行動の基本は、憲法13条の個人の尊重である。つまり他者を尊重し、自らは自戒するという市民像が私たちの社会の前提である。
 そういう人になるようにと、親から教わり、子どもたちに教えてきたではないか。学校ではそのように学んできたではないか。
 石丸市長のポピュリズムをめぐる問題は、こうしたあるべき市民像が、そのねらいのとおりになっていないということである。つまり日本の社会そのものが問われている。大げさに思えるかもしれないが、次の時代に日本が続いていくには、とても大事なことだと思っている。私は、そういう危機感で、縮図としての安芸高田市石丸市長に注目してきた。

3.石丸市長とポピュリズム
■石丸市長がポピュリズムのリーダーになるとは考えていない
 ただ、私は石丸市長がポピュリズムのリーダーになると考えてはいない。ナチズムの歴史を見ても、彼らが行った政策提案は実に凄い。たしかにドイツ国民を夢中にさせるものだった。それが国民が歓喜した背景にある。
 ところが、石丸市長は、この3年半で、そのほとんどが議員悪玉論に終始し、しかもいつまでも問題提起にとどまっていて、住民を歓喜させるような政策提案は何ひとつない。だから、ドイツのようなことがおこることは心配していない。
■ただ、SNS時代におけるポピュリズム形成のひとつの可能性を示した
 ただ、SNS時代におけるポピュリズム形成のひとつの道すじをつけた(その手法を示した)という点は、注目すべきだろう。
 SNSを使い、内実がほとんどないにもかかわらず、人々を熱狂させ、信奉させている。「信者」と揶揄されているが、一時的であっても、そうした「応援団」をつくることができるという点は凄いと思うし、脅威でもある。
 こうしたことができた理由については、さまざまな学問領域の専門家による、きちんとした研究に期待したい。

4.いくつか感じたこと
 まとめるにあたって、いくつか感じたことを書いておこう。
(1)反知性主義の風を受けて
■ベースにある政治不信

 第1回目に、「石丸市長は、ポピュリズムや反知性主義の風を捕まえて、ネット市民をエスタブリッシュメント(議会や新聞社)への異議申し立てに向かせたことが、「成功」の秘訣」と書いた。実際、これが正解だと思う。
 ただ、風はただでは吹かない。風のおおもとは、やはり広がる政治不信であろう。とりわけ、自民党のパーティ―券問題はひどい。こうしたやり方で、日本の政治を動かしてきたと分かってしまって、ますます政治不信は強まるばかりである。
 政治の立て直しをしない限り、ポピュリズムの風は吹きやまない。
■暮らしにおける希望の乏しさ
 同時に市民の暮らしの厳しさからも、ポピュリズムの風が吹く。
 経済的な苦しさもあるが、なによりも問題なのは希望だろう。今は、がんばればなんとかなるという希望は持てなくなっている。希望の見えない暮らしのなかで、鬱積した不満や不安が、議会や新聞社に向かい、それを煽る石丸市長に乗っかるのだろう。
 この問題も根っ子は深く、原因も重層的で、そう簡単に解決できない。
■「政治が悪い」・「民度が低い」論を越えて
 
ただ、政治が悪い、社会が悪い、民度が低いと言っても、問題は解決しない。ポピュリズムの風が止まるわけではない。
 評論家ならそれでいいかもしれないが、私たち市民は、与えられた、限られた条件のもとで、日々の暮らしのなかで、ポピュリズムの風を弱めるために何ができるのか、一人ひとりの問題として、それを考える責任がある。

(2)アンチ石丸市長派もポピュリズムの風を吹かす
■石丸信者もアンチ派も、議員も「たいがいなもの」という
 石丸信者だけでなく、アンチ派も、みな議員は「たいがいなもの」だという。本当に、議員のほうも「たいがいな」ものなのか、議員のどこが「たいがい」なのか。
 これについては第6回に書いた。地方議員には難しい経済理論はいらない。寄り添う力、調整力があれば、たいがいの地方自治の問題は解決する。地方議員に求めすぎだと思う。もし、それを求めるなら、政策提案能力が高まる具体的対案を示し、最低、給料を3倍にしないといけない。
 アンチ派の「議員もたいがいだ論」が、結果的に、石丸市長の煽り放題の土壌にもなっている。アンチ石丸市長派も、ポピュリズムの風を吹かすのに一役買っている。
■ちょっとした体験をすれば分かることをしていない
 結局、石丸信者もアンチ派も、議員をイメージで語っているのではないか。
 たとえば「地方」のおじさんは、遅れていて、SNSも理解できないと思っているのではないか。なめてはいけない。「議員」の役どころと言えば、越後屋とつるむ悪代官で、陰で悪いことばかりしていると思っているのではないか。でも、それは本当のことなのか。
 でも、ちょっとした地域活動や社会活動をすれば、地域の議員にすぐに出会うことができる。付き合えば、地方議員の実像の一面にふれることができる。その思いや抱えている課題をすぐに垣間見ることができる。地方議員を論じるなら、そうしたちょっとした体験のうえで論じたほうがいい。
■私の友人たちをみると
 私の若い友人たちは、一流の会社に努めながら、時間をつくってボランティア活動を行い、連休になれば、一泊三日で被災地に行く。
 若い人だけではない。先輩の一人は、大きな会社の社長をやりながら、町内会の副会長をずっとやってきた。会社を辞めたら、会長を引き受け、まちのためにがんばっている。
 オンとオフというか、自分の仕事をきちんとしつつ、社会とのかかわりを大事にしている。「大人」だと思う。彼らは、現場で体験するから、空虚な空理空論は言わない。
■ポピュリズムをいなすヒント・社会とのかかわりを持つこと、その機会をつくること
 むろん、人それぞれ、できる範囲はさまざまである。できる範囲でよいから、こうした地域や社会との実際のかかわりを持つことが、ポピュリズムをいなすひとつの道ではないか。
 人は地域や社会と関わることで「大人」になっていくとされる。日本でも裁判員制度が導入されたが、こうした、いわば義務的に市民が公共社会の当事者になる制度を増やしていくことが、その具体的手段となっていくのではないか。それがポピュリズムをいなす、ひとつの道になると思う。 

(3)マスコミがんばれ
■司法は冷静な判断をした
 石丸市長の2つの裁判を抱えているが、司法は冷静な判断をしている。
 裁判所は、国家機関なので、国にはひどく忖度するが、しかし、裁判所は、地方には全く忖度しない。その意味で冷静な判断をした。しかし、司法は事件がなければ出張ることはできない。
■キーはマスコミだと思う・今が踏ん張りどころだろう
 やはりポピュリズムの防ぎ手として、重要な役割を担うのは、マスコミだろう。
 マスコミも経営が苦しいために、売らんかに走るマスコミが多いなかで、石丸市長は、その風をうまく捕まえたのが「成功」の要因である、
 しかし、マスコミとしての矜持をなくすわけにはいかない伝統的な大手マスコミは、今が、がんばりどころである。
■裁判の解説記事をみて
 
ただ、その伝統的なマスコミも随分と力を落としたように見える。そのひとつの例が、石丸市長の名誉棄損事件の記事である。
 多くの新聞は、判決文そのままに、「判決は、安芸高田市の責任を認めたが、市長の責任を棄却した」と書いた。
 その通りであるが、そのままでは、一般の人には意味が通じない。実際、「【恫喝問題】石丸市長敗訴は嘘!個人への請求はすべて棄却!」という石丸市長応援YouTubeも出たそうだ。
 私が、参加したブログでも、同じようなことを言う人がいたくらいである。
■国家賠償法の理解
 そこで、私は、そのブログのなかで、次のように書いた。
 「石丸市長が、この行為(名誉毀損)を市長としての行為と構成したので、国家賠償法第1条の事案となったのです。
 (市長の)故意、過失によって、違法に他人に損害を与えたときは(今回の名誉棄損です)、国または地方公共団体が賠償する責任を負うというのが、この規定です。
 この点について、学説では、地方公共団体と同時に違法に損害を与えた個人(ここでは市長)も、同時に責任を負うという説もありますが、判例は、個人の責任を認めず、地方自治体のみ責任を負うとしています。
 したがって、安芸高田市は損害賠償(33万円)を負いますが、市長は負わないとして0円になりました。それが今回の判決です(市長の責任を否定したわけではありません。賠償の相手方の問題です)。
 しかし、それでは、市(市民)が損害を負ってしまうので、第2項で、故意・重過失のあるときは、地方公共団体(安芸高田市)は損害を与えた個人(市長)に求償できることになっています」。
 こうした国家賠償法についての基本的な理解があれば、新聞記事の書き方は、ずいぶんと変わってくるのだろう。
■もっとわかりやすく・会社の場合で考える
 それでもわかりにくいと考えて、より身近な会社を例に、次のようにも書いた。
 「会社の場合、従業員が取引先に損害を与えた場合、取引先は、従業員ではなく会社に損害賠償を求めます(会社には33万円、従業員には0円)。 
 会社は、損害を与えた従業員に対して、懲戒か損害賠償を求めます。それと同じです。
 ただ、今回の場合は、社長が取引先に損害を与えた場合です。普通の会社の場合、社長は企業イメージ等を考え、自ら責任を取りますが、安芸高田市の場合、これまでの様子では、社長(市長)は責任を認めないでしょう。」
 つまり、会社の場合、被害を受けた取引先は、被害を与えた従業員ではなく、会社に損害賠償を請求する。従業員は、直接には、損害賠償請求を受けないけれども、責任がないという訳ではない。ただ、今回は、問題を起こしたのが社長なので、どうなるか。
 このように、会社の場合に場面を移して、かみ砕いて書けば、この判決の意味が、読者に伝わるだろう。
■きちんと理解すれば、書くことが違ってくる
 以上のような理解があれば、新聞に書くべきことは、
・法律の仕組みで、市長個人の請求は棄却されたが、それは市長の責任を否定したものではないこと
・このケースは、社長自ら問題を起こした場合である。会社なら社長が責任をとるが、石丸市長は、市長として、どのように責任をとろうとするのか
 このように、注目点をかみ砕いて説明すれば、読者にも分かりやすく伝えることができる。要するに、難しいことを分かりやすく伝えるのが、新聞の役割ではある。
■新聞も人が減って、手が回らないのだろう
 ただ、どの新聞も、判決文そのままの「安芸高田市の責任は認めたが、市長個人の責任は棄却した」になってしまったのは、なぜか。
 新聞記者一人ひとりは優秀だと思うが、新聞社の経営が厳しく、新聞記者も人手不足で、そこまで手が回らないためだと私は考えている。
 今は、どこの新聞社も、支局に人がいなくなっている。大手の新聞社でも、30万人、40万人の大きな町でも、支局員は1名いればいい方である。相模原市や堺市のような指定都市でも、1人で支局を名乗っている新聞社もある。
 だから、こんな判決があったときに、相談する相手も、相談する時間もないのだと思う。
■難しい問題を分かりやすく伝える力
 ポピュリズム側の強みは、正義か悪かの二項対立で問題を提起する点である。だから、分かりやすい。しかし、世のなかの出来事は、そんな単純ではなく、多くは複雑で回りくどい。
 その難しいことを分かりやすく使える力が、マスコミには期待されている。しかし、その役割を十分に果たせないことが、ポピュリズムをさらに助長しているのではないか。それが安芸高田市石丸市長のケースで、一番感じたことである。
■学ぶネットワークをつくればよい
 ではどうするか。先に述べた国家賠償法の解釈は、大学の授業で学んだことである。でも法学部でなければ、分からないかもしれない。すべてが法学部出身でない新聞記者はどうするか。簡単である。人のネットワークをつくって、詳しい人に聞けばよい。
 国家賠償法の問題なら、行政法の専門家に聞けば、たちどころに教えてくれる。そういう人のネットワークを創ったらいいのではないか。

(4)顔の見える関係
■誤りを正す!ブログから学んだこと

 さて、このnoteは、「安芸高田市応援!市政刷新ネットワークの誤りを正す通信」というブログに参加して、触発されたことをベースに書いてきた。
 第1回目にも書いたが、このブログで、私は反市長派に分類されたが、別に居心地は悪くなかった。議論も比較的冷静だった。
■ポピュリズムをいなすヒント・何となく顔の見える関係をつくる
 その際、感じたのは、このブログは、ヤフコメと違って、比較的閉鎖的で、匿名ではあるが、何となく顔を見える関係が構築されているので、議論が比較的冷静に行われたのではないかと感じた。
 逆に言うと、ポピュリズムをいなすには、何となく顔の見える関係をつくっていくのが、ひとつの方向性ではないのだろうか。
■SNSの匿名性はどんどん弱くなっている
 その具体化としては、誹謗中傷があれば、その発信者を容易に特定できるシステムの簡素化などが考えられる。顔の見える関係の一種である。
 実際、そのハードルは、どんどん下がり、もはや陰に隠れて、ネットで誹謗中傷できない時代になった。その気になれば、個人の特定は容易にできる。警察も捜査に乗り出すようになった。自治体では、その特定をサポートする仕組みを模索し始めている。一歩ずつ前に進んでいる。
■安芸高田市石丸市長が、ポピュリズムへの対抗策をつくるという皮肉 
 石丸市長は、明らかにやりすぎである。今回は、煽られて、逮捕者まで出てしまった。まるで石丸アノンであるが、次には、議会に「突入」する人も出てくるのではないか。
 皮肉なことに、石丸市長が、煽れば煽るほど、ネットを使った、誹謗中傷に対する社会の見方も厳しくり、誹謗中傷者を特定するハードルが低くなり、そうした人たちを取り締まるべきという声が、どんどん大きくなっていく。
 皮肉と言えば皮肉であるが、ポピュリズムを煽る石丸市長が、ポピュリズムを乗り越える仕組みづくりに寄与しているということになる。
 その仕組みができたとき、石丸市長のことだからきっと言うだろう。「ポピュリズムの風潮を憂い、その対策を進めるために、私があえて、ポピュリズムを煽った。成功した」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?