関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語㉑

5月の福岡滞在記の続きを書いていきたい。
5月25日は、誰とも会う予定もなかったのでオフにしていた。
福岡県内を観光しようと決めていたのだ。

朝目覚めて、朝食をとってから、ぼくは大宰府に向かった。
大宰府天満宮の雰囲気が好きだったし、梅が枝餅が食べたかった。
あと大宰府天満宮近くのカレー屋が気になっていたので、寄った。

父親と娘さんで商っているお店で、雰囲気もよくおいしかった。
天満宮の近くにある九州国立博物館も気になっていた。
たしか、事前に福岡のお母さんから「九州国立博物館でいま、ガレの展示やってるよ」と聞いていた。ガレと言えば、よくテレ東でやっていた「出張!何でも鑑定団」に出てきていた奴だ!と思った。贋作が多かったけど…。

これはいい機会だ。
大宰府天満宮に来る度に気になっていたのでやっと来れたぞと思った。

ガラスの歴史みたいなテーマで、ガレがやはり革新的だったとかそんな展示のされ方。ガレと同時代に活躍した兄弟で経営していたガラス会社がライバルとして描かれていたり…、なんか最近、美術展などに行く機会が増えているのだけど、アーティストや表現者がその人生において、何を探求していたのか、何を表現しようとしていたのか、そういった点にとても興味がいくのだなとわかった。

作品をみても、その分野における文脈や意義が説明されていたとしても、いまいちピンとこない。作品を見ていてもあんまり惹かれることがない。

どうしてもアーティストの生き方とか、何を考えて作品を作っていたのかとか、その時々にどんな苦悩があったのかとか、そんなことに目が行く。

そうやって「人間臭い」部分の探求を通して、ぼくは、展覧会が催されるほどの歴史上の有名人と自分とのつながりを常に探しているのかもしれない。同じ人間として、同じ地平に立てる部分を探し当てたいのかもしれない。

歴史上の有名人だからって、変に持ち上げたり貶したくない。

大宰府周辺をたっぷり楽しんだ後、ぼくはこれまた福岡のお母さんに薦められ、前日から予約をしていたオープントップバスの乗り場へと向かった。のんびりしていたら、なんだかんだで時間ギリギリになってしまった。

市役所近くの受付でなんとか無事に乗車手続きを済ませ、14時30分の発車時刻が近づいてきていた。自分はももち浜の方へ高速道路を走って向かうコースを選択していた。費用は1200円ほど、オープンバスで潮風を感じながらの60分程のドライブだ。大宰府観光を終え、未だ福岡滞在中に海に行ったことのなかったぼくは、福岡市の新しい一面を観れるぞと楽しみにしていた。

その時だった。
時間を確認するためにみたスマホのLINEに、多めの通知が来ていた。

なんだろう?と思って開いてみると職場のグループKINEが騒がしい。

「利用者の家についてみたら、財布がないのですがどなたかご存じないですか?」

木曜の夜勤の介護者のこのような一言から騒がしくなっていた。

ややあって、木曜のその人は「やそらさん、財布持ち帰っちゃったんじゃないですかね~?大丈夫かな」とグループLINEに投下していた。

すこしややこしいのだが、その介護者は他事業所の人だ。
相模原事件の被害者の支援付き自立生活には二つの事業所が関わっていた。

うちの介護部門のトップがいなければ、彼の自立生活は始まらなかった。けど、いまはもうひとつの事業所からのほうがより多くの介護者を出してくれている。

木曜の介護者とはもともと折り合いが悪かった。
いろいろぼくのやることなすことが気に入らなかったのか、口出しされた。

ぼくの介護に臨む考え方や実践理論と木曜の介護者とでは、大きな齟齬があった。明らかにわれわれはズレていて、その人はこちらのやり方を尊重するのではなく、いろいろと口出ししてきた。

それにしてもその人は40代だ。
40代の人間が他事業所とのグループLINEの中で、よその事業所の人を暗に貶めるような発言をするなんて…。いろいろと意識が低いと思ったし、第一、ぼくは仕事を休んで福岡に観光中なのだ…。

1200円も払って楽しみにしていたオープントップバスに乗り込んだところで、どうして700㎞も離れた、無関係の職場からあらぬ疑いをかけられなくてはならないのか…!?ぼくは腹の虫が収まらず、胸がムカムカした。

意味わかんねえ!
ほんと、ここの一緒に働いてる人は、ぼくに対する敬意や尊重がない!

障害者福祉の世界に入って10年のキャリアはあるし、資格だって持ってる。大学院まで行ってるのに、まっったく!尊重されない!軽んじられてる!

相模原事件の被害者に関わる介護者の中で一番年齢が若いからか、週二日入っていて、一番コンスタントに利用者と関わっている人間のひとりのはずなのに、ぼくの意見が尊重されたと感じることが全然なかった。

ただでさえ、相模原事件の被害者の現場に入るのは心労があるというのに、支援者同士の横のつながりがまっったく、なってない!!

以前からそうだった。
うちの事業所はたぶん、連携とか協働とかそういうのが比較的苦手。
情報共有とかの視点も弱い。だから毎週水曜の夜勤に固定で入っていたぼくが休んだこともあちらの事業所の人はもちろん知らないし、その代わりに誰が入ったかも周知されていない。

結局、水曜の夜勤に入った現場責任者の方が利用者と共に利用者のご実家に帰っていたとか、そういうオチだった。それで当然、財布もなかった。

それがグループLINE内で発覚してからも、40代の木曜の介護者は、ぼくにあらぬ疑いをかけたことに対してなんら詫びを入れることもなかった。

心底あきれた。

ほかにも、その現場ではえーーー!?と思うようなことがいくつもあった。
ぼくはこれでも、利用者の生活がより良くなるようにと、内側、つまり事業所間や介護者同士の連携とか協働というのをずっと問題視してきたし、どうにかした方がいいのでは?とぼくなりに働きかけていた時期も、そういえばあったな~と思い出した。

しかしまあ、700㎞離れた土地から放たれたあらぬ疑いという弾丸、あるいはミサイルは見事にぼくのハートをぶち抜いた。

内心、クソが~~~~…と悪態をついていた。
それでもせっかくのオープントップバス、こんな気持ちで乗っていたんじゃもったいない(1200円も払ったのに!)と思って、なるべく早く気持ちを切り替えて、楽しもうと努めた。なんとか、20分位で自分の感情を鎮め、楽しむことができたと思う。

いろいろな条件が重なって、その日に起きた、自分が割を食っていると感じていた構造の中で、ずーっと仕込まれていた時限爆弾があの日、爆発した。

前向きに福岡移住を検討するために訪れた最初の福岡訪問でのこの事件、ぼくは「もう、こんな自分が軽んじられて、尊重されない、割を食う構造にあるような環境から出て行ってやるよ!!!!こんな職場辞めてやるわ!!」と内心吠えまくった。

利用者のことは好きだけど、もう、こんな職場(場所)いたくない…。
3年間、いろんな心労がありながらも自分なりに踏ん張り続けた現場で無理を重ね続けていたぼく自身が、こころの奥底から絞り出した本心だった。

オープントップバスでの気持ちの良い(?)ドライブを終え、再び市役所近くに戻って来たぼくは貴賓館へと向かった。貴賓館では、入館料を払って入館すれば、手ごろな値段でアフタヌーンティーを楽しめるとネットで知り、喫茶店の好きなぼくは目を付けたというわけだ。

せっかくなので貴賓館内部も観覧した。
そこではじめて知った。福岡でも空襲があった。
1945年6月19日に福岡大空襲があり、少なくない人が亡くなっていた。

4月には、広島の原爆ドームや平和記念資料館に行ったばかりだった。
一人戦場を生き抜いてきたという実感を強く持っていたぼくは、リアルな戦場や戦争でのあれこれへと、想いを馳せる時間が多くなっていた。

ぼくはひとり、空襲で起きたであろうことなどを想像しながら、物思いにふけりながら、厳かな気分で紅茶とケーキを楽しんだ。そして、自分が6月19日に福岡県内を訪問しているようだったら、どこかのタイミングで手を合わせようと思った。

そんな風に気持ちや感情、情動の動きの激しい一日だった。
とはいえやはり、700㎞離れた土地から放たれた弾丸に対する恨みつらみは残っていた。一日しっかり福岡観光を楽しんだぼくだったが、情動にふりまわされ疲弊してしまった。

悔しかったし、ムカついたし、楽しい観光気分をぶち壊されたことに対する怒りが湧いた。ぼくのことを軽んじる人が横の一緒に頑張っていきたいと思っている介護者の中にいて、構造的にどうもぼくは割を食いやすいように感じられてならないし、悲しかった。やるせなかった。ぼくのことを軽んじる人が許せなかった。ぼくだって、プライド持って介助者/介護者を長年やってきていて、これ!と思った実践理論を引っ提げてやってきていたのだ…。

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