福岡生活一周年に寄せて

一年前の今日、神奈川県座間市の夜勤介護を終えてから飛行機に乗り、夜に不動産業者に寄って、この家の鍵を入手し、何もないこの部屋に辿り着いてとにかく冷房だけつけて寝た。

関東を発つ前、いろんな人に挨拶をして回っていた際、ある人に、「どうして福岡なのかわからない」という問いを投げかけられた。

当時はうまく答えられなかった。

奈良県で2022年に元首相に向けて放たれた凶弾は、「川田家」にも直撃していた。
それから「川田家」はゴタゴタし、当時八王子市に住んでいた自分も流石にいろいろと落ち着かなかった。
博士論文のテーマをいわゆる「宗教二世」にしようかと本気で思った時期もあったのを、ぼんやりと思い出す。
あの頃展開された「当事者運動」にとても懐疑的だったし、「どうして犯人が撃ったのが母親じゃなかったことに誰も注目しないのだろう…?」とあの件をふりかえる時、今でも思う。

そして、彼の新興宗教が苛烈に叩かれるのをみるにつけ、それを信仰している身内もまるで「頭がおかしい奴」かのように世間からレッテルを貼られるようで、そんな世間が疎ましくて憎らしくて、やっぱりどうせ誰も「川田家」のことなんて助けてくれるわけでもないのに、好き勝手外野から騒いでくれちゃって…。

そんな風にドタバタしていると、父が離婚する!と騒ぎ出し、これをチャンスと見たぼくは積極的にそれを後押しした。

20代前半以降、「川田家の専門家兼実践家」となっていったぼくの最大の目標は「川田家」というシステムの破壊だった。

父の離婚宣言に動揺するある兄弟からは、自分が父のそんな気分に同調しけしかけていると睨まれ、「お前あまり余計なこというんじゃねえ」などと叱責される場面もあった。

その後結局、棚ぼた的に「離婚」は勝ち取られた。
まさに象徴的に「川田家システム」が瓦解した瞬間だった。

「川田家システム」を堅持してきた兄弟のひとりは、両親の離婚の決定の報せを受け、泣き崩れ兄弟LINEにヘルプを出してきた。

後々母が、「本当はお父さんと離婚なんてしたくなかったんだ」等と言うので、しばらくぼくは母に対する“罪悪感”に苛まれた。

「論理的に」考えて、どうしたって両親が離婚してくれるなら、一度きちんとそのような儀式があった方が確実にわれわれ世代の負担感や負債感が軽くなると思って当時は動いた。

ぼくの中で、「破壊すべき対象だった川田家システム」が崩壊してしばらくすると、「あ、俺の闘い終わったんだ…」と気づいた。

それはぼくの中で、「闘争状態からの回復」だったと思う。

「闘争状態」だったから、「障害者運動ど真ん中みたいな現場」にもそこまで無理なくいることができた。けど、自分の中の闘いが終わってしまって、「闘争状態」ではなく腑抜けていたあの時期、「これ以上、自立生活運動にいられない」と思った。

ぼくに「福岡来ちゃえばいいじゃない!」と声を掛けてくださったところの福岡のお母さんに後に、「この人、このままだと死んじゃうんじゃないかな?と思って、とにかく引っ張り上げるつもりで声をかけたところはあった」と言われたことがある。

「川田さんは、障害者運動もだけど、原家族からも離れちゃいな~って思ったかな」

「どうして福岡なのかわからない」という問いに一年経って、ようやく自分でも納得できる回答ができあがった。

ぼくにとって、「福岡来ちゃえばいいじゃない!」という呼びかけはカンダタじゃないけど、「蜘蛛の糸」でした。その呼びかけに最初こそ激しく動揺したけど、夢中になって掴んで登り切って、ぼくは福岡という地に辿り着きました。

福岡に着いてからのぼくのムーブは、えり子さんを亡くした後に「今までの変な人生のすべてと訣別して、やり直す」(p. 154)ために「キッチン」の田辺雄一が見せた逃避行そのものでした。

そうやって逃避行をしつつ、桜井みかげのような人から「今より後は、私といると苦しいことや面倒くさいことや汚ないことも見てしまうかもしれないけれど、雄一さえもしよければ、2人してもっと大変で、もっと明るいところへ行こう」(p. 158)と呼びかけてもらえるのを待っていたような気がします。

それはつまり、逃避行の中にあってももがいたりドタバタしたりしながら、「今までの変な人生」を体現する「川田八空」として、変に細分化されることなく、丸ごと「川田八空」として受け止めてもらえる関係の中で、「川田八空」の経験や知識を活かせる場や組織に呼ばれる日を恋焦がれていたというか…。

福岡のお母さんと最近お会いした際にも、「そういう場にステップアップしていくのに、福岡に来る必要があったんだろうね」なんて言ってもらえました。

話は変わりますが、先日FBの通知にギョッ!?とさせられました。

元々、甥っ子一人と姪っ子一人とつながっていたのですが、姪っ子から「いいね!」がついたと報せがきたのです。え!?まさかあいつ、こんな文章読んでるの…!?と叔父さんは動揺しまくり

先日、関東滞在中にドライブに行った甥っ子に確認したところ

「俺もいまFBのアカウント消えちゃってるんだけど、それまでずっとやっくんの文章読んでたよ!やっくん、本当に言葉の表現がうまいし感心しながら読んでた。俺も言語頑張ないとって思ったし尊敬してる」

助手席に座る一回り下の甥っ子にそんなことを言われて、運転席の自分は内心気が気じゃなかったのは想像に難くないだろう。

甥っ子は兄(長男)のところの長男なので、ぼくからすると本家の長男で後継ぎ!私は分家かな?

晩年貧乏学生を極めているのもあり、ネタ的に「実家は太いんですけど、やっぱトリクルダウンって起きないですよね~笑笑」などと言うのだが、父が一代目で兄(長男)が二代目を継いでいる家業があって、昔は自分も手伝おうとか、父の会社の手伝いをするのが夢だった頃も幼き日にはたしかにあった。

三代目候補であるところの甥っ子がドライブの際に話してくれたことにぼくは今でも胸がざわついている。

「家業は一代目がやっぱり「家族が経済的に困らないために」という想いではじめてて、二代目はより広く従業員の家族とか地域社会での企業としての役割を意識していて、『川田家の三代目』を自認する俺としては、そんな一代目と二代目の想いを引き継ぐような、しかも会社を継ぐんじゃなくて、今の家業を吸収合併できるような規模の事業を自分で立ち上げたいと思ってる」云々

実家周辺には、セルフネグレクト&ひきこもり状態のきょうだいが一人暮らしをしていたりするのですが、そのきょうだいの問題が長引けば、この甥っ子君は軽く三親等は「家族みたいな存在」と捉えてそうだし、将来的にそんな「家族みたいな存在」が困らないように頑張りたいとか言ってるから、このままでは「川田家の二代目の負債」を背負わせてしまうではないか…!?と…。

兄(次男)とよく、「自分たちが受けた傷をいかに次の世代に少なくしてバトンを渡せるかが、うちらの代の勝負だと思っている」などと話し合っていたのですが、ちょっと違うけど、次の世代に「川田家の二代目の負債」を渡してしまう~!?と冷静に考えて、あとあと申し訳なくなった。

大学進学の際、家業を手伝うなら商学部に進学した方がいいよな~と思いつつ、自分が当時やりたいと思っていたジャーナリズム方向により強そうな学部を選んでしまった経緯があったので、甥っ子のその決意を聞いて、大学進学時の自分の選択すらも後悔の対象になった。

カウンセラーにも、別にそういう決意について甥っ子さん本人に葛藤はないんでしょ?とは指摘されたけど

甥っ子にも言ったけど、「ある面では、自分は『川田家』に対して好き勝手逃げ回ってしまってる節あるから…」

今度また会った時にでもちゃんと話したい内容ではある。

たぶん遡ることおよそ10年前、自分がこうした「川田家」についてあれこれSNS上に書き記し始めた頃、きょうだいの一部から、「家のこと書くんじゃねえ」とやっぱり叱責を受けました。

それでもぼくは書き続けてきました。

ある人はそんなぼくの様子を「弱さの情報公開」だと言います。
ぼくもぼくで、「川田家の専門家」になるための当事者研究だなんて言っていた時期があったような気がします。

最近、姪っ子からいいねもらってマジでビビったわと兄(長男)に話したところ、「お前の文章なんか読んでるの身内位だろ笑」と笑われました。

けどぼくは、実は決して少なくない方々が自分の長ったらしい文章を結構な頻度で読んでくれているらしいことを知っています。

自分のFBの友達リストの中には、自分が信頼できるな~と思える人が結構います。ここ数年、社会的ひきこもりを自認しているけど、多動気味だし、人とのつながりを求めていくところあるから結局増えていくところあるよね。

そんな「信頼できるな~」という方々にある面では見守られつつ書くこの空間や関係性の中で、自分自身やっぱり回復してきたし、エンパワーメントされてきたところ大なんですよね。

最近、福岡のお母さんと話していた時に、「川田さんの原家族に専門家が入っても、抱えてるものが大きすぎて、やられちゃってたと思うから」とかなんとか言われて、ハッとしたんです。

たしかに、「誰も助けに来てくれなかった」事実は残り続けているんですけど、こうやって公開日記やったり、自分が家族の話をしたりするのを聴いてくれる人は別にカウンセラーに限らず、たーくさんいてくれました。思えば、その多くの方々が資格としてソーシャルワーカーや心理士、看護師を持っていました。

聴いてもらったり、自分というか「川田八空」という物語の証人や見届人になってもらえるだけでも万々歳なんですよね。

これはようけ言わんのですが、自分の人生はそれこそ人に言われたのですが、だいぶ「業が深い」らしいので、人としての経験の幅とか、器が大きいか、余程賢い人でないと「川田八空」を丸ごと受け止めるって、そうそうできないと思ってるんですよね。

「誰も助けに来てくれなかった」かもしれないけど、あーだこーだ書いてると、少なくない数の人が証人や見届人、あるいは話を聞いてくれる人もいるので、そんな今が幸せだよなって…

皆様のお蔭で、またすこし「今、ここ」を生きられるようになった気がします。書いてきてよかった。

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