関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語⑲

現実世界は8月に入り、自分の福岡生活も今日でちょうど1週間だというのに、この物語はいまだ5月下旬辺りの話をぶらぶらしている。
うだうだ言っていてもしょうがないから、すこしずつでも着実に、そして福岡に至る日々をより丁寧に書いていきたい、そんな気持ちが今は強くなってきている。その分だけ、書くのが億劫になっている気もするけども…笑

5月23日のおはなし会の後、疲弊したぼくはホテルの自室でくたばっていた。翌日は正午頃から精神科訪問看護の事業所をやっているMさんと会う予定があった。

Mさんとは、12月の大会の際、まずぼくが彼の事業所の分科会に参加し、その縁もあって彼がぼくの分科会に参加してくれたのがはじまり。

2月の福岡滞在中もお会いできるタイミングがあり、久留米市内を案内してもらったり、彼がこれから開く当時建設途中のグループホームの様子を伺ったりした。御年50歳で事業所代表なのに、時に患者のために感情的になり過ぎて、地域ネットワークにおける自分の立場を悪くしかねないようなこともしちゃいそうな、そういう不器用さのある人。

12月の分科会終了後、Mさんに言われた感想はいまもぼくの胸の中で響き続けている。

「やそらさんの話を聴いて、希望を感じずにはいられなかった」

ぼくは、自分の分科会で話し出す際、最初に断ったのだ。
「自分の気分は未だ闘争的な部分が強く、とても、ダニエル・フィッシャーのように希望を語ることはできない。だから、ジュディス・バトラーが言うような「自分自身の説明」をしたいと思います」と。

こちらが「希望は語れない」と断った上で語り出したぼくの自己物語や研究報告を聴いて、Mさんは、「希望を感じずにはいられなかった」と言った。

ぼくにはよくわからなかった。
けど、他者とはそういうものだよな、と同時に思った。
全き他者とは、こちらが支配もコントロールも不可能な存在だ。
だから他者の感想は、他者のものであり、それをうけてぼくがどうするか。
それが本来的な意味でのコミュニケーションだとぼくは考えている。

Mさんの感想をうけて、次第にぼくはこう考えるようになっていった。
ぼくはそもそも、将来的にはダニエル・フィッシャーのように「希望」を語れる人間になりたいと思っていた。そういった明るいものは、ぼくが今までいた自立生活運動の近くにはあまりないものだった。希望は語れないと思っていたぼくの自己物語を、にもかかわらず「希望」と感じる他者がいるのであれば、自分はどんどん自己物語を発信していけばよい。

そういう風に、自分が発信していく場をどんどん持っていこうと思うようになっていった。精神保健医療福祉分野で、自分が何者なのか、自分に差し当たり何ができるのかわからなかったけど、自分の語りが「希望」になり、精神保健医療福祉システムを変革する「力」になり得るなら、それは、修論で調査協力していただいた方々とはまた違うやり方で、ぼく自身も、「精神保健医療福祉システムを変革する当事者」として、フィールドに参加することを可能にするアプローチだと思えた。

そんな風にぼくに気づきと、ぼく自身の今後の道のりに関する示唆や洞察を与えてくれたMさんと、24日は、久留米らーめんを食べたりして過ごした。業界に関する、業界を今後良くするためのポジティヴな話題が多くて、妙に楽しかった。途中、Mさんの20歳位の娘さんがひきこもり気味で困っている、というような話になったような気もするが、いろいろ聴いていく中で、こんな風にしてみたら~?とか相談に乗ったりした。

ふりかえっても妙に爽やかでワクワクする時間だった。
ほんのつかの間の再会だったけど、Mさんとは次はどんな形で会うのかな。

24日はMさんと会った後、夕方から福岡で暮らし始めた際の自分の職場候補に、福岡のお母さん共々、挨拶に行くことになっていた。

そこはもともと福岡のお母さんらが中心となって始めたグループホームで、今は、違う母体の法人が引き取って運営しているところだった。ひとりひとりにマンションの一室が割り振られていて、職員が常駐しているような団欒スペースのようなものもあった。

ただ、その日は現場責任者の方に自分の近況と福岡市内の精神保健医療福祉分野で働きたいこと、だいたい8月前後に福岡に引っ越す予定であること、福岡にいつまで住むかは未定であることなどをお話した。

先方の責任者の方には、「その調子だと、福岡居ついちゃうと思うよ」と笑っていた。自分もそんな気分はあった。その方自身、元々、よその地域から福岡に移住してきた人らしい。

面談はつつがなく終わり、また来月ぼくが福岡に来た際に、日程を調整してグループホームの見学をさせてもらえることになった。

その後は、福岡のお母さんと沖縄料理屋に行った。
そこでは、何を話しただろう。それこそ、前日のおはなし会のこととか、なんで自分に声をかけてくれたのか、もとい、パルプンテをかけたのか理由などを聞いたんだったかな。

福岡のお母さんは、あんまり人には言えないんだけど、と断った上で、「私は頭がいい人が好きなんですよ」と言った。「やそらさんのあの論文、あれだけの膨大な引用をしながら、論理的に建設的に議論を組み立てることができる力、こういう人はいい支援ができると私は思ってるんです」というようなことを言われた。

あ~…、書いていて、しみじみ思ったけど、この言葉は20歳頃、大学の恩師に言われた言葉とかなりの部分重なる。当時、家の経験や不登校経験の整理がまだできていなかったぼくに対して恩師は、「やそらさんのそういう経験は、今後あなたが支援者になっていく上で必ず生きると思いますよ」というような言葉をかけてくれた。ぼくは、そんな彼がかけてくれたような言葉を、今度は自分が誰かに言えるようになりたくて、彼に憧れて頑張ってきていたのだったっけ。

ぼくは10年越しに、自分の状態が改善された上で、アップデートされた「あなたの~は支援に役立つ」という言葉を、新しいぼくのロールモデルから言ってもらえた。ふりかえれば、あれはそういう場面だったかもしれない。

恩師の時は、特に「ぼく自身の経験の価値」が転換された。
それまで、虐待やら不登校やら、どう考えても「社会的に良くない経験」とされるしかないと思っていた、ぼくの人生や経験を初めて「価値あるモノ」として捉え返す契機となったのが、当時かけられた恩師からの言葉だった。

10年の時を経て、福岡のお母さんからは、「ぼくの能力」が評価された。
それは、社会の中で傷つき、疲れ、重度障害者の近くに生まれる能力をカッコに居れた空間でのびのびやってきて、けどいい加減そろそろ、自分の能力や価値を正当に評価されたいとか、もっと必要とされたい!と感じていた自分にとって、浮かばれたような気分だった。それは同時に、自立生活運動や恩師との決別が近づいてきていたことを示していたように思う。

あと、ここの沖縄料理のお店で、特に自分の自己決定に関する困難などを話したかもしれない。ほかにも住吉神社という縁結びの神社で引いた恋御籤の結果がよかったとか話したような気がする。

15年ほど前、ぼくは地元のほかの兄弟も通っていたような特段レベルの高くはない私立中高一貫校の中学3年生だった。当時、ぼくは高校を別の学校を受験したいと思うようになっていった。当時いた学校の校風がどうにも好きになれなかったし、全体集会などでみかける高校生たちの雰囲気も好きになれなかったし、教員の雰囲気も…。

外部受験します!と宣言したぼくに対して、父や学校側は引き留めてきた。父は自らの心配をおしつけ、ぼくの決断を決して応援することなく、彼が考える道を進むことを望んだ。学校側も当時、学年一位の成績をとっていたぼくが外部に流出するのを惜しいと判断したのか、しょぼい特待生待遇を用意するから残ってくれと慰留してきた。

周囲の大人たちの中で、ぼくの自己決定を応援してくれる人間はいなかった。それで一度、学校側の決定を受け入れた。が、結局その三日後くらいにやっぱりどうしても無理だと思い、つっぱねた。とにかく外部受験をした。

肝心のぼくの高校受験はと言えば、そんな周りの大人たちの思惑に振り回され、ぼくの高校受験に反対した父は「いい加減、母とは一緒に生活できない!」と根をあげ、沖縄へと1年以上高跳びしてしまったりといった状況に巻き込まれ、無力にも振り回され、失意のうちに失敗した。

ぼくは自己決定=自己責任が怖くなっていた。
そんなぼくに福岡のお母さんは、「そんな決定って気張らずに、流れに乗る位のつもりでいてくれてもいいよ」と声をかけてくれた。また、福岡移住を決めていったぼくに対して、「いままでの関東での生活やそういうの全部切り替えて、自分で福岡に行くって選べたんだから、やそらさんの今後の人生はいい方向に行くに決まってる」と励ましてくれた。

恋御籤の「結婚」の欄では、「幸せな結婚ができるでしょう」とあった。
ぼくはもう、本当にそれが無邪気に嬉しくて嬉しくて…。
家庭で傷つき、自らの痛みのためにかつて、身近にいてくれた他者を著しく傷つけた実感を抱くぼくにとって、結婚なんて怖い怖いと長年思い続けていたぼくにとって、自分もやはり父のようになってしまうんじゃないかと、25歳位までそう恐怖心を抱き続けていたぼくにとって、「幸せな結婚ができるでしょう」というお御籤が告げるご神託(?)は、嬉しくてしかたなくて、福岡のお母さんにも喜び勇んで話していた。

「福岡でやっていく中で、自然と幸せな結婚だってできるでしょうよ」

沖縄料理屋を割り勘したぼくたちは、博多駅屋上のつばめの杜ひろばへと向かった。ミニ電車があったり、福岡空港の飛行機の離着陸の様子も見れるし、新幹線も見れるのだと聞いた。

そうやって着いて、飛行機の離着陸の様子を見ていると、父と昔二人で行った伊良部島のことを思いだした。かつて、伊良部島がいまのように観光地化される前、下地島の空港は、パイロットの訓練場として機能していて、常にジェット機がタッチアンドゴーを繰り返していた。夜は自転車でそこまで行って、タッチアンドゴーの様子をみながら周囲の海をみて、満天の星空を見て、父は持ってきたビールを飲んで…。そんな懐かしい風景を思い出した。

ミニ電車は、福岡のお母さんは友達と乗ったことがあるらしい。
「一周目は楽しく乗ってたんだけど、大人一行だったから、二周回られるとちょっと長く感じたし、しんどかったね。けどよかったら機会があったら是非、乗ってみてください」と言われたぼくは、思わずこう答えていた。

「そうですね…、子どもができたら一緒に乗りたいと思います」

こうやって、福岡で福岡のお母さんと話していると自然とポジティヴな未来予想図ができあがっていく。

次回は、改めて、もうすこしぼくと福岡のお母さんとの関係性について、あくまでぼくからの視点になるけど、ふりかえって言及したいと思う。

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