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自分と自我 大薬害で黙示録どころか艱難すらまだ無い 聖書に世捨ては無い 偽愛国 

1、自分と自我
自分があるとは、自制心があるという意味。
自我とは、我欲、私欲、私益に染まる状態。
自分があるとは、自分で自分をコントロール出来ている精神状態の事。
自我とは、我欲に支配されて、自分で自分をコントロールできない。
自分がある人は、自制心があるから、実態のあるモノを学ぶ。
自分がない人は、自制心がないから、実態のないモノを好む。
自我のある人は、我欲に染まるから、実態のないモノを好む

2、世を捨てろとまでは聖書に書いてない
世を愛してはいけないけど、世捨て人はダメ。

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。

ヨハネの手紙1 2章 15節16節 新共同訳

人の立てた制度に従えと書いてあるから、世捨て人にまでなれとは、聖書には書かれていない。

主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、

ペトロの手紙1 2章13節 新共同訳

「人が立てた制度」の定義にもよる。
制度なのだから、責任の所在が曖昧なものは従う必要はない。
それは「努力義務」「家族」「テレビのコメンテーター」「世間」「会社」など、そういうのは制度ではないから、従ってはいけない。
従う必要がないのではなく、従ってはいけない。
制度ではないものに従うのは、神に背く事になる。

3、逃げる場合
聖書では、逃げる場合は、いくつか条件がある。
1人で迫害された場合は、他の町へ逃げればいいと書いてある。

新約聖書:マタイによる福音書:10章:23節
一つの迫害されたなら、他のへ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。

「他の町へ逃げなさい」と書いてあるから、町を捨ててまで、山奥へ逃げるのは止めておきなさいと読み取れる。
自分一人が迫害されたぐらいで山奥へ逃げてはいけない、と読み取れる。
自分一人が迫害されてないなら、まだまだ最後の審判は始まらない。
自分一人が迫害されている状況では、まだ艱難は始まらない。
自分一人が迫害されるかどうかは、実際に聖書解釈などの活動が必要。
活動もしないで、艱難が始まるかどうかを教えてくれなんて言われても困ると思う。
そもそも、迫害が始まったら、教える暇なんかあるかどうか判らない。
町から町へ逃げ回っているから、ネットで文書を投稿する暇が有るかどうか判らない。
今は、迫害が一ミリもないから、最後の審判どころか、ヨハネの黙示録どころか、艱難どころか、迫害すら一秒も始まっていない。
まあ、毒親が逆上して絶縁宣言してきたり、毒親に吹き込まれた周りの人が変に激怒するけど、毒親が原因だから艱難とは全く関係ない。
妙な液体による大薬害を根拠にして、黙示録とか言っている人たちが存在するけど、本気で聖書の布教活動をしていないのに、何で聖書に関する黙示録を軽々しく言いふらせるのだろうか。
しかも、こういう言いふらす人たちは、今ヨハネの黙示録が発生しているとか言い出す。迫害すら一ミリも始まっていないのに。

「町々を回らないうちに」と書いてあるから、世界中の町を逃げ回らない内に、イエス・キリストが救世主として君臨して、悪魔や悪魔崇拝者を懲罰するだろう、と解釈できる。

集団の場合は、山へ逃げなさいと書いてる。

新約聖書:マタイによる福音書:24章:16節
そのとき、ユダヤにいる人々は逃げよ。
新約聖書:マルコによる福音書:13章:14節
荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は逃げよ。
新約聖書:ルカによる福音書:21章:21節
そのとき、ユダヤにいる人々は逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。

「そのとき」とは、どういう時なのかは判らない。艱難なのか、最後の審判の始まりなのか。
「人々」と書いてあるから、全員で共通する事だと思うけど、人類全員なのか、信者全員なのか。

4、黙示録どころか
多分、今は、出エジプトや申命記の前段階ぐらいだろう。
聖書は2000ページ、外典も合わせると3000ページもある。
しかし、まだ徐々に減らす段階である。

旧約聖書:出エジプト記:23章:30節
わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払うであろう。あなたは、ついにふえひろがって、この地を継ぐようになるであろう。
旧約聖書:申命記:7章:22節
あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう。あなたはすみやかに彼らを滅ぼしつくしてはならない。そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう。

背教者を徐々に減らすと言っているから、妙な液体を接種する背教者を徐々に減らす段階だから、まだ聖書では1割も終わってない。
疫病は、天の主が背教者への天罰として下すものだから、その天罰を妙な液体で蹴散らそうと考えるのが既に背教行為であり、背教者である。
出エジプトの23章は130ページぐらいから。
申命記の7章は290ページぐらいから。
外典も合わせると3000ページ分ぐらいは有りそうだから、申命記でも1割も終わってないし、出エジプトだと5%も終わってない。
今回のような大量虐殺が、あと10倍20倍はあるという意味になるかもしれない。
疑うなら、自分で聖書を読んで自分で解釈して欲しい。

5、子供は未熟ではなく
子供は未熟ではなく、素直なだけ。
「幼な子 天」を探す - 聖書検索(口語訳) (kirisuto.info

新約聖書:マタイによる福音書:10章:16節
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
新約聖書:使徒行伝:17章:11節
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。

サタン側の支配下である社会で利権を得るには、自分を捻じ曲げて服従するしかないから、素直さがなくなってしまうから、そういうのを「大人になる」という言い方で美化している。
利権を手に入れるのはダメだけど、マイホームとマイカーを買って、治療費1000万円程度の貯金、子育ての貯金2000万円、食べて飲んで愉快に暮らす分には別にいい。
俺は子育てをしてないから、子育て資金が必要なのを忘れていた。
申し訳ない。
聖書では子育てについて書いてあるから、子育ての費用は貯金しても良い。
老後資金については、良く判らない。
自分は家も車も酒もタバコもギャンブルもやらないから、どれぐらいの資金が必要か判らない。

6、親の発達障害
親が発達障害でダメな子育てをしたというけど、神に立ち帰れば、罪悪感が湧いて、謝罪しに来るはずである。
そもそも、とっくに親の悪行は許している。
失敗したことは悪くなくて、失敗を反省しないのがダメだろう。
俺の虚弱体質を認めず、大人になれば治ると目を逸らして、どうにもならなくなっても反省しない。
普通の親なら、虚弱体質でも出来る仕事やスキルを身に付ける方法を探すはずである。
毒親は、障害児を産んでしまった現実を受け入れないで、こうなってしまった。
神に立ち帰れば、発達障害や健常者に関係なく、一定以上の人格になるのだから、その一定以上の人格でやり取りできるようになるから、人間関係の問題は無くなる。
何で、親の発達障害を許せ、という話になるのか判らない。

毒親を許したけど、背教者を受け入れてはならないと聖書に書いてあるから、神に立ち帰っていない親を受け入れないだけ。

この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。

ヨハネの手紙2 1章10節 新共同訳

社会のサポートがどうとか、人間の力で何とかしようというのが、そもそもの間違いである。
口先だけのキレイ事で人々の時間を無駄にして、地獄へ道連れにするサタンの騙し文句である。
人間の力なんて、キレイ事だけで何も良くならない。
神へ立ち帰れば解決する。

7、愛国と似非愛国
愛国者は、国のために愛国をやる。
偽愛国は、自分の財産を守るため、他人に愛国をやらせて、他人の命を捨て駒に悪用するから、ロクなモノではない。
聖書的には、愛国も偽愛国のどちらも好ましくないけど、この程度の区別は付ける。
信者同士では平等だけど、不信者同士は格差・優劣・階級を付ける。
国民を生け贄にする事しか考えていない政治屋は、似非愛国者である。
人の死を踏み台に悪用して、言論弾圧の強権を握りたいだけのファシストが今の政治屋である。
すべての国の権力はサタンが与えるものだから、議席もサタンが与えるものだから、人々が神へ立ち帰れば、こういう似非愛国の政治屋は消滅する。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

ルカ福音書 4章6節 新共同訳

人々が神に立ち帰る時間を無駄にしているから、サタンが喜んで、似非愛国の政治屋に議席を与えるのである。
人々が神に立ち帰れば、サタンが激怒して、似非愛国の政治屋を落選処分にする。
ここから上10行をアチコチでコピペすると、サタンが激怒して、似非愛国の政治屋を落選処分にする。

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