ペトロの穢れていると言ってはいけないは、異邦人という理由で迫害してはいけないという意味
異邦人にも門戸が開かれた
使徒言行録の10章28節の解釈は、外国人に門戸が開かれたから、民族によって穢れているかどうかは決まらないという意味になる。
ペトロの言う「どんな人」というのは、「どんな民族」でも民族の条件で穢れていると言ってはならない、という意味だ。
ペトロの言う「穢れていると言ってはならない」とは、異民族という条件だけで穢れていると言ってはならない、となる。
旧約では、異邦人は穢れているから、一緒に食事をすると穢れるから、水洗いで身を清める必要があるという考えが有った。
しかし、新約になると、そういうイスラエル人と異邦人の垣根は無くなり、異邦人というだけで穢れたモノでは無くなったから、異邦人というだけで穢れていると言ってはならない、となった。
ペトロが言う「誰に対しても清くないとも穢れてないとも言ってはならない」というのは、当時のユダヤ社会はユダヤ人以外を穢れた者として決めつけていたから、咎めて言ってはならないと「たしなめた」だけ。
自分に対して穢れていると言うな、と要求するものではない。
当時のユダヤ社会は、ユダヤ人だけが救われる人間と決めつけて、ユダヤ人以外の異邦人は穢れている思い込んで、異邦人を無条件で侮辱・迫害・差別して良いと考えていた。
しかし、実際の旧約は、「敬虔なイスラエル人」と「敬虔なイスラエル人を助ける異邦人」だけが天国へ入れる。
「アブラムを祝福する人をわたし(神)は祝福し」と書いてあるから、アブラムの子孫であるイスラエル人を助ければ、異邦人も天国へ入れる。
「地上の氏族はすべて」と書いてあるから、異邦人も範囲である。
だから、2000年前に新約に変わった時の「ユダヤ人による旧約解釈」は間違っている。
異邦人である遊女のラハブは、イスラエル人の密偵を助けたから、天国へ入れた。
「イスラエルの中に住んで」と書いてあるから、この場合の「イスラエル」には、かなり重要な意味があり、天国へ入れたのだろう。
ユダヤ人というだけで天国へ入れない。
背教的なユダヤ人は地獄へ落ちる。
旧約でも「敬虔なイスラエル人を助ける異邦人」はイスラエル人という選民でなくても天国へ入れる。
新約では、イスラエル人ではない民族でも、天の主に対して敬虔なら天国へ入れる。
婚宴や大宴会に異邦人が招待されたという例え話が新約にある。
マタイによる福音書 22 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)
ルカによる福音書 14 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)
最初に招待された人が断ったと書いてあるから、この最初に招待された人たちとはイスラエル人やユダヤ人の事である。
そして、色んな人を招待したと書いてあるから、イスラエル人以外ユダヤ人以外を招待したのである。
当時のユダヤ社会の事情も判らないほど初心者なら、とりあえず「自分は他人を穢れていると言わない」と解釈しておけばいいだろう。
物事を調べる人間なら、律法違反の背教者を穢れていると言えばいい。
聖書は、初心者なら字義通りに解釈すれば上手くいくし、上級者なら自力で取捨選択ができるように書かれている。
実際、何回か聖書を読めば、背教者は穢れていると言うべきと判る。
それなりに自分で調べる人なら、ネットですぐに当時のユダヤ社会の事情も把握できる。
無条件で他人を全員「穢れていると言ってはならない」と解釈すると、聖書全体の解釈で矛盾しているからおかしいと判る。
聖書を何回か読まないと判らないだろう。
新約しか読んでないようでは、判らないだろう。
ましてや、聖書を一回も読んでないようでは判らないだろう。
「無学な人」は曲解して自分の滅びを招く。
当時のユダヤ社会の事情を調べない無学な人どころか、聖書を一回も読まないようでは、どうなるのか。
神に背いて、背教行為をしている人に対しては、イスラエル人だろうが、ユダヤ人だろうが、異邦人だろうが、どの民族だろうが、穢れていると言うしかない。
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