フルーツバスケットを読み終えて
先日、少女漫画のフルーツバスケットを読み終えた。
タイトルは聞いたことがあったが、昔のアニメを少し見て設定をなんとなく知っている…程度の知識でスタート。
なんとなく、有名だしそろそろ読んでみようかなくらいの気持ちでした。
結果、何度も泣きました。こういう作品、大好きです。
細かい感想は置いておいて、私がどうしても考えを纏めたかったというか書き連ねたかったのは、大きく2点。
感情の赴くまま書かせていただきます。
異性に抱きつかれると変身する理由
そういう設定だよっていえばそれで終わりなんですが、どうしてなんだろ??って思ってたんですよね。
呪いで【十二支に変身する】までは分かるけど、その条件が【異性に抱きつかれる】なのは何故?って。
そして、最後まで読んで自分なりに出した答えが、
異性を抱く=愛しい人=神様との絆を壊す可能性がある者→神様と約束をした時の姿に戻ることによって、神様を何よりも大切にすることを再確認させる…という構図でした。
アキトがそうだったように、十二支達が離れていくことが神様も何よりも怖くて、だからこそ裏切った猫は何よりも醜い姿にした。
それは傷つけられた神様の悲しみの姿であると同時に猫への罰。
楽しい宴会も、他に大切なモノが出来たら仲間が離れてしまうかもしれない。自分たち以上に大切な人ができたら…
自分たちしかいらない。
そんな気持ちが、愛することを拒絶するように異性を抱きしめると元の姿に戻るという形になったんだなと思いました。
そう考えると、十二支同士は抱き合っても変身しないのは大切な身内で、その中では愛があっても神様との輪が壊れることは無いからってことなのかなと。
捨てられた子どもたち
これは完全に【輪るピングドラム】からの発想なんですけど、物の怪付きが生まれてしまって円満な家庭の方が珍しく、由希くんなんか完全に子どもブロイラーで透明にされた存在ですよね。十二支という存在でアキトから離れられないから少し違うけど、家庭の単位でみたら完全に捨てられた存在。
キョウ君は憎まれるという役がある上での排除だから、透明になることさえもできないけれど。
家庭から捨てられたことに変わりはない。
愛を貰えなかった子どもたちはやがて透明になって消えていくしかないけれど、そこに愛を惜しみなく与えてくれたのが透。
運命の果実を誰にでも惜しみなく分け与えてくれる、とても暖かい愚者。
だけど、透も母親を歪な形で留めていると明かされた時、だから由希じゃなくてキョウ君なんだなあとしっくりきたというか。
輪るピングドラムの日毬がカンちゃんじゃなくてショウちゃんを選んだのは、最初に愛を分けて見つけてくれたのがショウちゃんだったから。
キョウ君にとっては言わずもがな、醜く恐ろしい姿の自分を受け入れてくれた透。
透にとっては、弱い自分を見つけて隣にいてくれたのがキョウ君。
でも、キョウ君が透への気持ちを由希のように母親的な愛ではなく、1人の女性としての「愛しい」気持ちとして育んだのは何故だろう。
それこそ、母親にしてほしかったことをしてもらったのに代替品にしなかったのは何故?
うーん。
もしかしたら、母親にしてもらえなかったからこそ、まっさらな気持ちで一対一の個人として向き合った結果の【愛しい】なのかも。
由希くんは、幽閉されたり家庭から実質捨てられたりしたけれど少なくとも十二支の絆の輪の中に最初からいた。何はどうあれ、フルーツバスケットの輪の中にいた由希。
彼に足りなかったのは無償の母の愛。
フルーツバスケットの輪の外にいたキョウ君が求めたのは、自分を見つけてくれる人。
そこの違いが、【愛しい】気持ちの方向性の違いになったのかな。
ここまでツラツラ書いて、フルーツバスケットというタイトルが以下に重要なものか再確認。
創作する人って本当にすごい。
私も透くんのように暖かな人になれるよう、自分のも、周りの人の背中の梅干しも大切にしていきたいな。
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