永岡 啓

牧師として荒川聖泉キリスト教会で奉仕をしています。 日曜の礼拝で分かち合っているメッセ…

永岡 啓

牧師として荒川聖泉キリスト教会で奉仕をしています。 日曜の礼拝で分かち合っているメッセージを紹介させていただきます。

最近の記事

私たちは無力♪

「私たちは無力」という内容の歌を 喜びをもって歌う。 そのような人たちがいると聞いたら 不思議に思うのではないでしょうか。 悲しい内容の歌を 悲しみをもって歌う人はいますし 喜ばしい内容の歌を 喜びをもって歌う人もいます。 しかし 「私たちは無力」という内容の歌を 喜びをもって歌う人たちなんているのだろうか… と疑問に思うのではないでしょうか。 キリスト教の教会は 「私たちは無力」という内容の歌を 喜びをもって歌う集いです。 したいと願う良いことを行えず したくない

    • 絶対に失くさない

      「何かを持ってるやつは いつか失くすんじゃないかと ビクついてる…」 これは村上春樹の小説のある登場人物の言葉ですが 私もかつて クリスチャンとしての生活を始めた後で 「救いを失うんじゃないか」と 強い不安を感じていたときがありました。 何かをしてしまうことによって または何かをしないことによって 持っている救いを 失ってしまうのではないか… とビクついていたときがありました。 そのような私が恐れから解放され 安心できるようになったのは 聖書を通してイエス・キリストに出

      • ◯◯をすれば救われる?

        「◯◯をすれば✕✕が手に入る」 という考えに接することが 生活の中であります。 「◯◯円を支払えば✕✕が買える」 「◯◯という結果を出せば✕✕と評価される」 という考えに私たちは慣れています。 その影響を受けて 「◯◯をすれば救われる」 と思う人が多くいるのではないでしょうか。 たとえば 「ルールを守れば救われる」 「良いことをすれば救われる」 と考えている人が少なくない のではないでしょうか。 そのため 「神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉を 「『神の国

        • キリストが薦める健康食品

          ある健康食品が問題になっています。 「健康に良い」と宣伝されていた食品に 健康を害するものが入っていた という報道がされています。 その商品と会社を信頼していた消費者は どれほど失望していることでしょうか… 聖書の中に 「たましいの健康に良い」ものとして 薦められている食品があります。 イエス・キリストを覚えて受ける パンとぶどう酒(聖餐)です。 私たちの罪が赦されるために 身代わりとなって人として十字架で死に 神の全能の力によって墓から復活し いつの日か再び地上に

        私たちは無力♪

          自分が作り上げたウソのために死ねる?

          「十字架で死んだイエスが墓から復活した というキリスト教の信仰は イエスの弟子たちが作り上げたウソである」 という意見を耳にすることがあります。 「自分が得をするため、自分を守るためにウソをつく」 ということはあると思います。 しかし 「イエスの復活」がウソだとしたら 弟子たちは自らのウソで得をしたり 自分を守ることが出来たでしょうか? 歴史書によると弟子たち(1世紀の教会)は 「イエスの復活」を伝えることによって 得をするどころか 自らの命を失った(殉教した)者も大勢

          自分が作り上げたウソのために死ねる?

          ココロを喜びと平安で満タンに

          「ココロも満タンに、◯◯◯石油」 というコマーシャルのフレーズがあります。 ガソリンスタンドは 車をガソリンで満タンにすると同時に 車に乗る人の心も 移動する喜びと ガソリンが満タンであることの安心で 満たしてくれます。 調べてみたところ、そのフレーズは 「企業としてのメッセージ」 だそうです。 そうであれば 教会としてのメッセージを 「ココロを喜びと平安で満タンに、イエス・キリスト」 というフレーズにすることもできると思います。 十字架で死んだ後 墓からよみがえった

          ココロを喜びと平安で満タンに

          何があっても大丈夫

          「何があっても大丈夫」という安心は どうすれば手に入るのでしょうか? 努力すれば獲得できるのでしょうか? お金を出せば買えるのでしょうか? 世の中には 「こういう努力をすれば大丈夫」 「これを買えば大丈夫」 という様々な声が飛び交っています。 その一方で 「何があっても大丈夫」という声は どこで聞けるでしょうか。 聖書を通して私たちは 「何があっても大丈夫」という声を 聞くことができます。 努力をして獲得するのではなく お金を出して買うのでもなく イエス・キリストを

          何があっても大丈夫

          あなたは、ありがたい存在

          「あなたは、ありがたい存在だ」 それが、聖書を通して神が私たちに伝えている メッセージです。 「ありがたい」という言葉には 「有り難い(有るのが難しい、めったにない) ものごとに対して喜ぶ気持ち」 という意味があります。 私たちは、ありがたいものごとを 私たちに喜びを与えるものごとを 探し求めます。 そのような私たちに神は 「あなたは、ありがたい存在だ」 と語りかけています。 「わたしの目には、あなたはありがたい」 「わたしの喜びなので、あなたはありがたい」 「わたし

          あなたは、ありがたい存在

          心の歯医者さん

          「キリスト教の救い」は 「虫歯の治療」に似ています。 虫歯の治療を喜ぶ人は いないと思いますが、 虫歯の治療を後悔する人も いないと思います。 それと同じように 罪を認めることを喜ぶ人は いないと思いますが、 罪の赦しを後悔する人も いないと思います。 虫歯の痛みは 一時的には鎮痛剤で抑えることができても ずっと抑え続けることはできません。 それと同じように 「心の虫歯」とも言える罪の痛みは 一時的にはいろいろなもので抑えることができても ずっと抑え続けることはできま

          心の歯医者さん

          闇の中に光がある

          闇の中に光がある。 それが聖書に記されていて 教会が信じている イエス・キリストのメッセージです。 聖書には 戦争や貧困、争いや病などのありとあらゆる闇が 数多く記録されていて、 闇の根源にある 罪と死に対して無力な人間の歴史が 絶望的に思えるほどに はっきりと記されています。 しかし同時に 無力な私たちに与えられている希望の光として イエス・キリストが証言されています。 イエス・キリストが 罪人の身代わりとなって十字架で死に そして死に打ち勝って墓から復活した。

          闇の中に光がある

          自分を大切にしてもらいたい

          「承認欲求」という言葉を耳にすることが 近ごろ増えてきました。 「価値ある存在として自分を認めてもらいたい」 という欲求です。 簡単な言葉にすれば 「自分を大切にしてもらいたい」 という欲求です。 「私は、人の承認欲求をどれぐらい満たしているだろうか」 「私は、人をどれぐらい大切にしているだろうか」 と自分に問えば 「ほんのわずか」が答えです。 ですから 私の承認欲求を満たしてもらうことを人に求める資格は 私にはありません。 しかし聖書には そのような私の承認欲求を

          自分を大切にしてもらいたい

          信じない理由に耳を傾ける

          「クリスチャンの家庭で生まれたけれど、 子どものころから『神なんていない』と思っていた。 20代になって『神を信じていない』と親に言ったら 泣かれてしまった。」 という内容の投稿をSNSで読みました。 (この投稿に高評価をしている人が3千人以上います。) この投稿者の親であるクリスチャンは 「神を信じていない」と子どもが言った後 信じない理由に耳を傾けただろうか… と思い巡らしています。 「親に言ったら泣かれてしまった」 で投稿が終わっていることから推測すると もしかした

          信じない理由に耳を傾ける

          私は無力

          自分の無力さ。 それを隠さないのが クリスチャンの特徴の 一つです。 自分の力では 「清く正しく美しく」生きることができない。 自らの知恵では 心の平安を手に入れることができない。 そのことを自分自身と人、そして神に認める集いが 教会です。 多くの人が 「自分には◯◯という能力がある」 「私は✕✕ができる」 という形で 「自分は何者か」を表現するのに比べると 大きな違いがあります。 一人のクリスチャンによる無力さの告白が 聖書に記録されています。 「私は、したいと願う善

          わたしの手を貸します

          「僕の手を売ります」 というテレビドラマ(創作・架空のお話)があります。 主人公は借金を背負っていて 「プロアルバイター(何でも屋)」として さまざまな人手を必要としている人々に 自分の手を売る(手伝ってバイト代を受け取る) ことを通して借金の完済を目指す… というストーリーです。 聖書が伝えるのは 「わたしの手を貸します」という (創作・架空ではない)ノンフィクションの メッセージです。 中心人物は神であるイエス・キリストで 人間の手では解決できない問題を抱えている人

          わたしの手を貸します

          「神」のイメージ

          「神」という言葉から思い浮かべられるイメージには 「閻魔大王」や「その道の達人」など さまざまなものがあります。 聖書に記されている神は いくつかのイメージで表現されています。 その中の一つは 私たちを守る「警護専門の警察官」 (Security Police, 略称SP) のような存在です。 私たちを要人(重要な人物)と位置づけ 全力で守る存在。 ウィキペディア(インターネット上の辞典)には 「(警護している人物を守るために必要であれば)人間 の盾となり受傷、最悪の

          「神」のイメージ

          「人生のにわか雨」の中で      一緒にずぶ濡れになってくれる人

          にわか雨が降るとき 私たちは困ります。 雨具がないので持っているものを使いますが 不十分な対応しかできないからです。 「人生のにわか雨」が降るときも 私たちは困ります。 予期していなかった出来事を前にして 心が悲しみに濡れる中で 不十分な対応しかできないからです。 イエス・キリストは 地上での生涯において 「人生のにわか雨」に何度も降られました。 人々の予期していなかった態度に驚き 心を悲しみに濡らして涙を流し 限られた対応しかしませんでした。 無限の力を持つ神で

          「人生のにわか雨」の中で      一緒にずぶ濡れになってくれる人