永岡 啓

荒川聖泉キリスト教会の牧師

永岡 啓

荒川聖泉キリスト教会の牧師

最近の記事

主役がいるクリスマス・ソング

「麺なしラーメン」というものがあるそうです。 「ラーメンの主役である麺がなかったら 味や食べごたえが大きく違うのではないだろうか…」 と想像します。 もしも万が一 「麺なしのラーメン」しか知らない人がいたとしたら 「麺が入っているラーメン」 を私はおすすめすると思います。  さて、クリスマスは キリストの誕生を祝う行事ですが、 お祝いの主役が歌詞の中に入っていない多くの歌が 「クリスマス・ソング」と呼ばれています。 もしかしたら 「主役のいないクリスマス・ソング」 し

    • 与えるために手放した

      プレゼントは 自分の手から放すからこそ 相手に与えることができます。 そしてプレゼントには様々な大きさがあります。 手放しても自分が困ることはない大きさもあれば 手放すことに痛みがともなう大きさもあります。 イエス・キリストは 大きな痛みをともないながら様々なものを手放し 私たちに大きなプレゼントを与えてくださいました。 イエス・キリストが最初に手放したのは 自分の住まいでした。 この上なく快適な天の住まい 天国での生活を手放して 地上に来てくださいました。 そし

      • あなたの選択を尊重します

        「あなたの選択を尊重します」 そのように言われると、私は安心します。 自分が望まないものを押し付けられる危険がない、 と分かるからです。 「あなたはこれを選びなさい」 「あなたはあれを選んではいけません」 と言われて自分の思いや考えが尊重されないと、 自分自身が大切にされていないように感じます。 今、いわゆる「宗教二世」 (宗教団体に属する親が、 法令に違反する行為 や人権侵害を容認する教えや指導に従うことで、 尊厳を傷つけられてきた子どもたち) の問題に、多くの人が関心

        • セーフ・チャーチ(安全に取り組む教会)

          「教会として何に取り組みますか?」 という問いに対して 様々な答えがあると思います。 「伝道に取り組む」、「学びに取り組む」、 「交わりに取り組む」… など数多くのものが考えられる中で 「セーフ・チャーチ」 (日本語にすると「安全に取り組む教会」 でしょうか…)を 取り組みの一つとして高く掲げている教会があります。 聖公会という、世界規模の大きなグループです。 初めて「セーフ・チャーチ(安全に取り組む教会)」 という言葉を耳にしたとき、 「教会がわざわざ安全に取り組む必要

        主役がいるクリスマス・ソング

          船頭は一人

          「船頭多くして船山に登る」 ということわざがあります。 リーダーが多くて グループが混乱してしまい 望ましくない方向に物事が進んでしまうたとえです。 リーダーが多いと問題が起きるのならば 一人にすれば良いということになるので、 「誰をリーダーにするか」が大切になります。 「声の大きい人」や「人気のある有名人」、 「自分が『この人!』と思う人物」 などの基準でリーダーを選ぶことは可能です。 しかし 教会のリーダーはキリストです。 キリストと牧師ではありません。 キリストと

          船頭は一人

          キリスト者としてのビフォーアフター

          「大改造!!劇的ビフォーアフター」 というテレビ番組を視聴して ビックリしたことがあります。 様々な住みづらさのある家が 匠(たくみ:技術にすぐれた人)の手によって 住心地の良いものへと 変えられるのが衝撃的でした。 それに勝るとも劣らぬ衝撃的な変化を 私はキリスト者(イエス・キリストを救い主として信じる者)として 経験させてもらっています。 かつての私は 人生における地震が起きると (健康や経済などにダメージを受けると) 心が大きく揺さぶられ、 不安に押しつぶされそう

          キリスト者としてのビフォーアフター

          わずかでも十分

          「それでは不十分」 と言われることを 私たちは恐れていないでしょうか。 必要を満たすのに十分なものを持っているだろうか? 目指している方向へ十分に前進できるだろうか? 取り組んでいることを十分に達成できるだろうか? 出来る限りのことをしても 「それでは不十分」 と言われるのではないか… そのような恐れを 私たちは抱いていないでしょうか。 そのような私たちに イエス・キリストが語りかけています。 「わずかでも十分」 五つのパンと二匹の魚でも十分。 取り組んだことの一部

          わずかでも十分

          あの罪でさえも赦されている!

          先日、カトリック教会の礼拝に参加したときに 「回心の祈り」というものを会衆と一緒にしました。 祈りの中に 「わたしは、思い、ことば、行い、怠(おこた)りによって たびたび罪を犯しました」 という一文があり、 「怠り」という言葉が特に心に響きました。 ふだん自分が礼拝でしている「主の祈り」の中には 「私たちの負い目をお赦しください」 という一文があります。 「負い目」という言葉で祈るときと比べて 「怠り(という罪)」という言葉で祈ったときに より深い悲しみを覚えました。

          あの罪でさえも赦されている!

          心のごみの集積所

          教会の敷地の一画を近隣の方々に ごみ集積所として 利用していただくことになりました。 ご近所さんから 「助かります」という声をかけていただき うれしく思っています。 考えてみると十字架は 罪という人間には処理できない心のごみの 集積所です。 その十字架を ぜひ多くの方々に伝えさせていただきたい と願っています。

          心のごみの集積所

          はじめまして

          教会HPの「牧師紹介」にリンクし 牧師として何をしてどんなことを考えているか を書こうと思っています。 よろしくお願いします。

          はじめまして