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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[075]ヨーゼフと連れ立って行くソグド人の宿

第3章 羌族のドルジ
第7節 ソグド人の宿
 
[075] ■1話 ヨーゼフと連れ立って行くソグド人の宿
 昼前にドルジがロバを一頭引いてやって来た。それを待っていたらしいヨーゼフがナオトを探した。
 ハヤテに頼まれて、蔵に預けてあるコメ俵を日陰に並べ、上下を返して干すなどしていたナオトは、ちょうど手が空いたところだった。
「ナオト、昨日話したソグド人がやっている宿に行ってみるか?」
「はいっ、お供します」
 勢いのある応えに微笑んだヨーゼフが、
「わしは、長くは歩けないのでロバに乗っていく。お前は、歩いて付いてきなさい」
「わかりました」
 何度か西の原まで走ったことのあるナオトは、宿とはたぶん裏に広い庭があるあの家のことだろうと見当を付けていた。
 ――もしあそこなら、走っても息を切らすことはない……。
 後に付いて行くはずが、走るナオトはロバの歩みよりもずっと速かった。それをドルジの鹿毛が追う。ヨーゼフは、まあ、先に行きなさいと手を振って合図し、ロバの背に揺られてゆっくりと続いた。

 フヨの入り江と都との間には宿場が五、六か所ある。フヨの商人たちは、ラクダを連れ、あるいは荷車を引いて行くときには少なくとも四か所で、馬ならば二、三か所で泊る。
 ヨーゼフの仕事を手伝うと決めて海沿いのヨーゼフのもとに移って来た当初、ドルジは月に二度ほど、都の先まで行き来した。その帰りに、食事にとたまたま立ち寄った入り江手前の宿で一人の娘と知り合った。そして、恋に落ちた。
 後で訊くと、宿屋を営む娘の父親をヨーゼフはよく知っていた。いま向かっているのはその宿だった。
 宿の主である娘の父は、自分たち一家と同じようにソグド語を話し、人の気持ちがよくわかるドルジのことを、はじめて会ったときから気に入っていた。その父親から、次の春に娘と一緒に暮らしはじめる許しをもらったのはついこの間のことだった。

 先に着いた二人は、宿の入り口近くの丸太の手摺てすりに背を預けて、ヨーゼフの乗るロバが来る道の先を眺めていた。
「クルトはセターレを守って都まで行った。ヨーゼフにとって大事な人らしい」
「そうか、クルトが一緒なら安心だな……。セターレはヨーゼフの従弟いとこだ」
「吾れもそう聞いた。ところで、この宿は元は商人だったソグドの人がはじめたものだ。いまはその人の息子がやっている。それから、クルトの牧場はお前も知っている通りにいま来た道を右に入ったところにある。吾れはずっとそこで寝泊まりしていた」
「いまは違うのか?」
「ああ。いまはそのすぐ近くに建てた家に住んでいる。できたばかりで中には何もないが……」
 ヨーゼフが着き、馬とロバとを入り口近くに繋いで宿屋に入った。両手を挙げて出迎えてくれた宿のあるじとヨーゼフが、いまでは見慣れたソグド人の挨拶を交わしている。
 ヨーゼフが三人分の食事を頼み、主に親し気に挨拶したドルジが、
「ヨーゼフの従弟のセターレが持たせてくれたソグドの国からの土産みやげです。ハルヴァという蜂蜜はちみつでできた菓子だそうです」
 と言って、小さな包みを渡した。
 ――ソグドの国の蜂蜜はちみつのカシ……?

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