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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[143]トゥバで鍛えた鋼

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第5節 トゥバの鉄窯

[143] ■5話 遠征20日目の夕方 トゥバで鍛えた鋼
 みなで小屋の外の的場まとばに移った。小屋の中の作業をさらに続けてできたというボルドの棒が近くの台の上に置いてある。これをなお鍛え、磨いて、短めの剣にするという。
 族長から渡されたその棒をみなで回した。自分のところまで来たとき、手で持ってみてナオトは思った。
 ――んっ、これはフヨの鋼と似ている。光り方だろうか。それとも重さか? なぜかはよくわからないが、そんな気がする……。
 そうして作ったという短剣が台の上に置いてあった。手招きされたエレグゼンが、まずその短い剣を一振りし、次に鋼の棒を振った。剣を握るとき、思わず「見掛けよりも軽いな」とつぶやいたエレグゼンは、二つを振り終わってからバトゥの方を向いて言った。
「長さが違うので何とも言えないが、重さは同じようだ」
 そこで、今度はバトゥが同じことをやった。「んーんっ」とうなって、剣をバフティヤールに渡した。ナオトも持つだけは持って重さを確かめた。最後にメナヒムが振ってみた。
 握りが違い、長さが違う。棒の方は持ちにくいため何とも言えないが、ただのテムールの棒ではこうはいかないとみなが口々に言った。すると突然、エレグゼンが台に戻された短剣と棒に両手を延ばし、二、三歩前に出て、棒を剣に思いっきり打ち付けた。キーンと鋭い音がしたが、どちらも折れるということはなかった。
 そのまま的場の外に歩み出て、地面から生えているマツの小枝を左手の棒で打ち、次に、右手の短剣で払った。棒で打ったマツの枝は折れただけだが、短剣で払った枝の方は、切り口も見事に地面に落ちた。振った感じはどちらも変わらない。
「これは、短いがいい鉄剣だ」
 エレグゼンが感嘆したように言った。

 短剣と同じ鋼で作ったという槍の穂先と長いやじりも用意してあった。鏃の先を親指の爪に当てるなどしていたエレグゼンが、矢に継いであるものから一つを選ぶと、弓を借り、少し先に立てた棒状のまとに向けて狙いも付けずに放った。革を巻きつけた腕の太さほどの木の棒がターンと乾いた音をあたりに響かせた。
 つかつかと歩いて行ったエレグゼンがその棒を引き抜き、刺さった矢ごと持ってきてメナヒムに渡した。鏃は見事に棒の芯まで達していた。四人が同時に「うーん」と唸った。
 ――これならば戦場で使える! 我らが東から取り寄せて使っている三翼の矢と同じような強い鋼だ。鋼は、ここトゥバで確かに作っている……。
 みなと同じように、ナオトは興奮して立っていた。それは、この試射の的場でも、鉄窯でも同じだった。しかし、心を占めていることはみなとは違った。
 ――ここでの作業を自分でやるとしたらどういう場所を選ぶ? 使う道具はどうする? それを誰に手伝ってもらえばいいか?
 トゥバの族長は、そのようなナオトの心の動きには全く気付いていない。驚き、目をみはっているとだけ捉えた。五人の匈奴の驚いたさまは、そのまま、自らへの称賛に思えた。
 ――どうだ、これがトゥバの鋼作りの現場だ。もっとも、匈奴の戦士が五人集まったところで何がわかろう。
 族長はそうたかくくっていた。

 何をしたという訳でもないのに、メナヒムたち五人はみな疲れ切った様子で二番目の小屋を出た。黄色に輝く熱した鉄は、扱い方によっては命にかかわる。それがみなを緊張させ、興奮させて、疲れさせた。
 広い路を通って窯場を囲む土城の出口に向かうとき、一番後ろを歩きながらふと閃いて、エレグゼンにソグド語で言った。
「明日の朝、あのカスの黒い山に戻って少し拾って帰ろう。何かわかるかもしれない」
 ――こいつだけは違う。いつも通りのナオトだ。
 いまはぐずぐず言っているときではない。エレグゼンは「わかった」と頷いた。
 一同は族長に勧められるままに夕餉ゆうげの席に進み、我を忘れたようになって酒を飲み干し、この時期に食すことは稀なあぶったヒツジのあばらにかぶりついた。みなの気疲れを見て取って、族長がわざわざ用意させたという。
 匈奴の剣の馬上からの一振りは恐ろしい。しかし、その剣のもとになる鋼を作る現場も、同じように恐ろしいものだった。
 そういうものがこの世にあると、いままで考えたことのない恐怖にとらわれて、匈奴の戦士たちは、戦場を駆け回った後と同じように言いようのない疲れと空腹とを覚えた。その恐怖を振り払うようにして、勧められるままに強い酒をあおった。
 ナオトは違った。昼に見たことを一から思い返し、一つひとつが何を狙いとしているのかと考えていた。族長が「作ったばかりのアラカだ」と言って目の前においてくれた馬乳酒のようなトゥバの飲みものを礼を言って口に運び、ゴクリと喉を鳴らした。

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