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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[005]ハルの思い出

第1章 西の海を渡る 
第2節 突然の旅立ち

[005] ■2話 水田みづたとハルの思い出
 この物語の初めの舞台である十三湊とさみなとや十三湖の位置と大きさは、現在の同名の地形、あるいは、これまでに発掘された遺跡が示すものとは多少異なっている。
 また、水田みづたで作る籾殻もみがら付きのよねをこの物語ではコメと表現する。脱穀してまだぬかが付いたままの玄米をコメと記すこともある。 
 もとより、稲穂から摘み取ったばかりのコメは、たとえ天日で乾燥してあっても、そのままいて食すというわけにはいかない。
 ウェブサイトで確認すると、籾殻が付いたままの稲穂をイネの茎から外すのを脱穀もしくはいねこき、そうやって得た穀粒(この物語でいう籾米コメ)から籾殻を外す作業を籾摺もみすりという、とある。
 つまり、(夜になると見える月のウサギの模様のように)うすに入れた籾米をきねいて籾摺もみすりし、籾殻もみがらを除くと、米ぬかに包まれた玄米げんまいになる。それを長時間水に浸けておいて煮るなどして、ようやく口にすることができる。
 このように、いまも昔も、米食は相当に手間が掛かる。しかしコメは、そうした手間など何でもないと思わせるほどに人々を日々のひもじさから解き放ち、現代風に言えば、栄養価が高く腹持ちがいい。
 実際にどうだったかは想像するしかないが、さらに調理しやすく、また消化しやすいようにと玄米から糠を除いて精白した米――精米ないし白米――が一般に食されていたとは、この物語では想定しない。
 このコメを食すときの事情は、ナオトが生きた時代である紀元前一世紀のヒダカ《日本列島の東部》でも、あるいは、東アジア、モンゴル高原や中央アジアでも同じだったと考える。

 十三湊とさみなとには、乾燥した魚とかヒレとか貝、高志こし――後のこし――から運んでくるヒスイや光る貝で作った玉、首飾り、腕輪などを大陸むこうのおかに向けて運び出す舟が幾艘いくそうも並んでいた。湊の舟人は、ずいぶんと昔から、こうした品々を南の野代のしろの湊――いまの秋田県能代市――から十三湊まで運び、舟を替えて海を渡っては大陸まで運ぶということを生業なりわいにしてきた。カエデが嫁いだ先のカケルもそうした交易で身を立てている。
 十三湊でやりとりされるものの中に北ヒダカの貝柱や藻塩がある。善知鳥のホタテを乾燥させた貝柱は、確かにうまい。西の海の向こうの国でも評判なのだという。
 また、つぼに詰めた藻塩は舟の上での食事の汁に欠かせないと、海を越えてものを運ぶ舟の舟長ふなおさが忘れずに積む。こうした海の物は貴重なコメや鉄の小板と換えられるので、浜人にとって思わぬ稼ぎになる。
 前にはなかったことだが、この頃は岩木川沿いで作っているコメも積み出して海を越えるようになった。稲穂から摘んだ籾付きのコメでふくれた俵は、小舟に載せて岩木川を下り、十三湖とさみのうみを渡る。
 しかし、荷送りに舟が使えないところも多く、そういう家では人を頼んで岩木川沿いの舟寄ふなよせまでかついでもらう。その舟寄せから十三湊まで小舟で運んだ後に、ヒダカの南や大陸へと送る。
 ナオトの村にも、荷送りを請け負う者があった。家が近く、一緒に育ったハルの父もそうした一人で、頼まれたときには村で人を募って西山を越える。ハルは幼い頃から親を手伝い、いつもナオトがそれを助けた。
 春から夏にかけては、善知鳥の海産物を詰めた俵を背負い、緩やかな坂道を並んで西に上っていく。十三湖の舟寄せまで行って荷を舟主に預け、ハルの親戚の家で一晩世話になって、翌朝早くに起きて帰る。ハルの父がいつも後ろで見守っていた。
 秋にはコメの積み出しを手伝う。まだ暗いうちに里を出て岩木川沿いの鶴池つるいけの村まで行き、湿地にかやを敷いた道を上っていって受け取った俵を、泥濘ぬかるみに足を取られながら舟寄せまで背負子しょいこを使ってかついでいく。
 二日目の昼過ぎ、その道を何度行き来したかもう数え切れなくなる頃、帰り道が暗くなる前に善知鳥の里まで戻ろうと、ハルの手を引いて山道を急いだこともあった。
 
 それがいつの頃からか、なんとなく互いに縁遠えんどおくなった。ハルが少しずつふくよかになってきて、見掛けが大人の女のように変わり、ナオトをよそよそしく避けるようになったのだ。ハルの父とはいつも通りに挨拶を交わすのに、ハルはなぜか脇を見て応えない。
 
 何かが違ってきていると気付いてはいた。しかし、ナオトはいつも通りのナオトだった。
 浜仕事に駆り出されたときなどに、まばゆいばかりのハルの姿を目にすることがあっても、声を掛けるでもない。家の前の道を浜に向かって少し下り、左に曲がればすぐそこがハルの住む家だというのに、訪ねて行こうともしない。
 そうこうするうちに、季節は立ち止まることなく巡っていった。

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