見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[085]白棱河(ハクレンビラ)の舟寄せの焚火の側で

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第3節 匈奴言葉の通詞、ドルジ
 
[085] ■1話 白棱河ハクレンビラの舟寄せの焚火の側で
「吾れは、そろそろ寝る」
 と言ってカケルが横になった。北の丘から川に向かって吹き下ろす風が涼しい。
 ハヤテは「また明日」とナオトに声を掛けて火の側に行き、舟子たちに様子を聞いている。フヨの言葉で何か面白いことを言ったらしく、笑い声が広がった。
 ――みなの気持ちを掴んでいる。ハヤテのような人に、吾れはヒダカでは出会ったことがない……。

 少しすると、みな、思い思いの場所を見つけて去り、横になった。ドルジが一人、焚火の側に残っている。ナオトが近くに行き、声を掛けた。
「ドルジ、ハンカ湖の会所まで馬で来たのか?」
「おお、ナオト。お前もここまで来たのだな。そこに座れ」
「遠かっただろう?」
「たかだか三日だ。何ということはない。舟の中でじっとしている方がよほどつらい。それに、吾れの鹿毛かげは遠出を好む」
 よくよく考えたうえでナオトは、思い切ってドルジに切り出した。
 ――もし、傷跡を見せまいと隠しているのならば、答えずに黙っているだろう。
「前からに気になっていたのだが、その頭の傷は戦さで負った怪我の跡か?」
 ドルジは突然の問いに驚いたようだが、すぐにいつもの顔付きに戻り、答えた。
「ああっ、そうだ」
「ひどい怪我だったんだな……」
「ああっ、ひどい怪我だった。クルトがいなかったら吾れはあのときに死んでいた」
「そうか、クルトが救ってくれたのか……」
 そこで初めて、クルトを兄と慕うドルジの本当の気持ちがわかった気がした。
「……」
「……」
 押し黙った二人は、じっと火を見つめていた。
 ――人に殺されそうになるとはどういうことなのか、吾れにはわからない。ドルジはそれを内に抱えて、いままで誰にも話せなかったのだろう……。
 そのとき、なぜか、ナオトの目に涙が溜まった。残り火に照らされたその横顔を目にすると、それまで息を詰めていたドルジがふうーっと大きく息を吐き、肩を小さく震わせて声を上げずに泣きはじめた。ナオトは、思わず、ドルジの肩をとんとんと叩いた。
 土鍋を傾けてナオトが椀に湯を注ぎ、ドルジに手渡した。二杯目だった。「ありがとう」と言って受け取ったドルジになんとか話をさせようと、ナオトは明日の朝に会うことになっている匈奴について訊いた。こういう人たちだと話すドルジは、どこか嬉しげだった。
「匈奴は、我らキョウ族と通じるところがある……」
「そうなのか。どういうところがだ?」
「猛々しい」
「んっ、猛々しいとは荒いということか?」
「ああ、猛く、荒い者が多いと思う。しかし、嘘がない。吾れの姉は、そこに惹かれて匈奴の男と一緒になったらしい」
「そうか、嘘がないか……」
 ナオトは思わず、ヒダカ者はどうだろうと考えた。
 ――吾れたちヒダカびとも同じだ。吾れたちは友だとドルジが言うのはきっとそのためだ……。

第3節2話[086]へ
前の話[084]に戻る

目次とあらすじへ