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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[158]帰途、カルリク・タグ山の麓を過ぎる

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第10節 ハミルのバザールにて

[158] ■3話 遠征41日目 帰途、カルリク・タグ山の麓を過ぎる
 二人はハミル前山の麓を過ぎ、山並みが少し低くなったところをゆっくりと進んでいた。
「ナオト、この左手の高い山がカルリク・タグだ。名前はいいが、山の姿は覚えておけ。後できっと役に立つ」
「カルリク・タグか。アルタイを下るときにずっと見えていた山だな……。わかった」
「明日になれば、少し離れたところからもっとよく見えるようになる。東から沙漠ゴビを越えてきてこの山の頂が見えたら、もう、迷うことはない」
 気持ちのいい日だった。山肌に陰を落とした雲が上空の風に吹かれ、その陰がゆっくりと山の下から上へと動いていく。
 ハミルで休んで、馬は三頭ともずいぶんと回復したようだ。馬体がつやつやとしている。しかし、疲れが溜まっていないはずがない。
 途中、替えの斑馬ぶちから荷物を少しラクダに移して身軽にしてやり、麻綱でしっかりと結び直した。これならば、いざというときには綱を切って荷を落としてやれば、馬は三頭とも駆け出すことができる。
 いまのところは急ぐでもなく、ラクダを間に挟んで縦に並び、ぶらりと馬を進ませている。しかし、この先は機を見て急ぐとエレグゼンの目が告げていた。
 三頭のうちシルだけは、何が起きているかを呑み込んでいるようだった。途中で止まり、尻尾を振りながら草をむ仕草を見せると、エレグゼンが追い付いてきた。
「そいつ、本当に賢いのか。少しにぶ過ぎはしないか?」
 ナオトは平然とシルのなすがままにし、停まった馬上で辺りを見回した。
「この場所は四方からよく見える。急いではだめだとシルは知っている」
 先ほど通り過ぎた辺りから、水面から上がる陽炎かげろうのようなものが見えた。
「エレグゼン、お前、このあたりは知っているのか?」
「ああ、よく知っている。この近くの土城で深手ふかでを負って、吾れはそこで一月ひとつき過ごした。あの奥にあるトゥルクレという湖をこいつに乗って何回か回った」
 そう言うと、ゴウのくびを軽く二度ぽんぽんと叩いた。
「フカデか?」
「ああ、左肩に負ったひどい槍の傷と、背中と脚に矢傷が合わせて四つだ。匈奴の祈祷師きとうしっためた土に吾れを首まで埋めて血を止め、傷口にべったりと鹿のあぶらを塗って、その上にヒツジの肝臓を当てていやしてくれた。もう少しで死ぬところだった」
「キトウシとはなんだ?」
「トゥバに入る前、案内のハカス兵が村のおばばと言っていたのを覚えているか?」
「ああ、覚えている。ヒダカと同じだと思ったからな」
「あれだ。だが、その祈祷師はおばばではなくじじだった。本当に世話になった……」
「いつのことだ?」
「いまから四年ほど前だ」
「……」
 いつか話していたションホルという友を亡くしたのはこの近くなのだと気が付いて、ナオトは言葉を呑み込んだ。
 右手に森が見えていた。
「あそこで待て。森には入るな」
 そう言い置いて、エレグゼンはゴウの腹を軽く一蹴りし、先に見えている草原に向かって駆け出した。すぐにナオトの視界から消えた。
 ――この近くを見回って来るのだろう。それに、しばらくぶりにゴウを思いっきり走らせることができる。
 馬上では、しかし、エレグゼンはタテガミにしがみついて涙していた。
 少し前、あのとき戦ったトゥルクレの土城が後ろに見えるかという辺りを通った。そのとき突然に、しかしまざまざと、友ションホルの苦しげな死に顔が目の前に現れた。漢兵の槍がションホルの背中を貫いたときに上げた咽喉のどの奥から絞り出すような死ぬ間際の鋭いうめき声は、四年経ったいまでも、エレグゼンの耳に付いて離れない。
 あるじ嗚咽おえつに気付いて、ゴウは駆ける脚を緩めた。

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