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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[196]ナオトとイシク親方

第8章 風雲、急を告げる
第4節 戦さを終えて

[196] ■3話 ナオトとイシク親方
 イシクは馬に乗る。北の疎林にあるナオトが初めて作った窯を見てみたいと言うので、エレグゼンと三人、日のあるうちにと馬で出掛けた。

 これにまさときはないというモンゴル高原の初夏。久しぶりの遠出がよほど嬉しかったのだろう。イシク親方サルトポウの顔は生き生きと輝いていた。
 いまは使っていない北の疎林の鉄窯の中には、ナオトが手探りで砂鉄を焼いたときの鋼のもとの小ぶりで細長い塊がほとんど手付かずで残っていた。手前に三か所、鎚で欠いた跡がある。イシクは窯の中をほじくり返しながら、興味深げに眺めていた。
 ナオトが毎日通っているという鉄囲炉裏は、つい先ほどまで鋼を打っていたかのようだった。頼りなげな囲いの真ん中に、残る火種が見えている。
 ――この仕事場で冬を過ごしたというのか? これでは寒かっただろうに……。
 イシク自らが作って与えたあの重くて大きい金床かなとこが炉の近くに据えてある。煉瓦の壁の陰に箱型のフイゴも見える。その脇の竹でこしらえた棚には、あのときしっかりと選んでナオトに渡した鋼の素の小さい塊がいくつも載せてあり、その隣りにはさまざまな形と大きさに鍛錬し、合わせたらしい鉄の小片と棒とが並んでいた。
 ――ここにあるものを、全部一人で作ったというのか……?
 イシクは、ナオトの粘り強さと取り組んできたものの大きさに驚いた。

 夕刻、三人で一緒に食事をした。エレグゼンはザヤたちのゲルに立ち寄って顔を見せてから、ナオトのゲルまでやってきた。漢との戦さが終わった後に再び部族と暮らすようになって建てたもので、前よりも少し広い。
「おい、ナオト。この間の粥を食わせろ」
 伯母から預かってきたという水に浸けたままのコメを鉄鍋ごと手渡しながらそう言うので、粥を煮ることにした。手元にある干したキノコは去年の秋のものだった。
 ――そうとわかっていれば、山ので何かんできたものを……。
 そう思いながら、よさそうなキノコを選び、前に見つけて乾かしておいたノビルも入れた。大振りの手元の器はどれもナオトが焼いたものだった。
 腹が減っていたのだろう。微かに残るキノコの香りに誘われたか、二人ともカイのつかみ、「ヒダカの草粥か」などと言いながら勢いよく口に流し込んだ。本当のところ、貴重な玄米コメをヒダカびとが口にすることなど稀なのだが、まあいいかと聞き流した。
「わしはコメを口にすることなどほとんどないが、うまいものだなぁ……」
 イシク親方が泣きそうな顔をして言った。以前、「草はヒツジが食うもの」などと言っていたエレグゼンも、三杯目を欲しがった。
 しかしナオトは、何か一味ひとあじ足りないような気がしていた。塩味も違う。
 ――藻塩もしおがあればなあ……。
 その後に、ザヤの母が焼いてはちに盛ってくれたヌーンと、大皿に並べたエーズギーとアウールルにみなで手を延ばした。昨日、「ラクダの乳で作ったばかりだから」と言ってザヤが持ってきてくれたものだ。イシク親方はその皿をじっと見ていた。気に入ったらしい。
「ナオト、この皿もお前が焼いたのか?」
 微笑わらってうなづきながらナオトは、後でよく洗ってから渡そうと考えていた。

 ナオトとイシクは、いつも、上手うまいとはとてもいえないソグドの言葉で話した。
 その夜、囲炉裏端で馬乳酒を飲みながら、ナオトは問われるままに、自分がこれまでに見てきたことをイシク親方に語った。脇に寝そべったエレグゼンがときどき口を開いてナオトのソグド語を補う。
 鉄作りのこともあれば、ヒダカでのこともあった。西の海とそれを双胴の舟カタマランで渡る話にはことに興味を引かれたようだった。
「争いのないヒダカの国か。やはり、わしらの巻物タナハに書いてある通りに、海の向こうには別の土地があったのだな。いつか行ってみたいものだ……」
 感慨深げに、イシク親方がつぶやいた。
 ――タナハ? 親方はタナハを読むのか……。あっ。もしかすると、親方ならば読めるのでは?
 ふと思い付いて、ダーリオの革製の袖なしを引っ張り出し、その背の裏側にどうにか残っている黒い文字跡をイシク親方に見てもらった。フヨの入り江でヨーゼフが手渡してくれてからずっと、何が書いてあるのかと気になっていたものだ。
「この袖なしはフヨの海際に住む胡人イスラエルの商人がくれたものです。こちらに来てから、その背の文字を見ろという短い便りをもらいました。たぶん、吾れの旅について書いてあると思います」
 ナオトが言い添えた。
「ふーん。ここにはバクトラから匈奴までの行き方と道のりが記してあるようだ。この二つの土地の名と、それにソグディアナはまず間違いないと思う。しかし、ほかの読み方がなくはない」
 何が書いてあるんだかというふうに、イシク親方が返してよこした。
「話がよく通じている書き手と読み手の間でないと、こういう書き物の本当の意味はわからない」
 と言う。
 それまで寝転がって居眠りしていたエレグゼンが、「なに、なに」と半身を起こした。
「ああ、それか。前に見たが、吾れには読めない。ヨーゼフではなく、ダーリオが書いたものかもな……」
 エレグゼンはソグド語が読み書きできる。ヘブライ語も話す。しかし、ソグド語と同じ文字を使って記すヘブライ語をいざ読もうとすると、知っているヘブライの言葉が限られているために、書いてあるその文字の列が何を意味しているものか解釈できないのだと言う。
 わずかな文字を覚えたばかりのナオトは、文字とは面白いものだなと思ったが、「ああ、そうなのか……」と応えるしかなかった。
「ザヤなら読めるぞ、たぶん。呼んでくるか?」
 寝転んだまま、エレグゼンが言った。

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