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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[066]サルトポウのセターレ

第3章 羌族のドルジ
第5節 アルマトゥから来た男

[066] ■2話 サルトポウのセターレ
 ヨーゼフの一族はバクトリアを中心に何代にもわたって東西の交易に従事してきた。その一族の者はシーナの地にもいるという。
 シーナは、いまでこそハンという王朝が支配しているが、一族に伝わる古い商いの記録の初めに出てくるクニの名はシュウだった。
 アラム文字で記したその記録は、いまはフヨの入り江に住むヨーゼフのもとにも写しが一冊あって、代々の記録に続ける形でヨーゼフ自身の商取引の記録がソグド語で記してある。ナオトは以前、それを見せてもらった。

 ナオトが来てから二月ふたつき近くったある日、ヨーゼフが何気なく戸口を見ると、そこに見知らぬ男が立っていた。一瞬のの後に、ヨーゼフが大きな声で叫んだ。
「サッポー!」
 後でくと、サッポーはサルトポウを早口で言ったもので、隊商カールヴァーンを率いる者という意味だという。よそおいから、そのサルトポウがソグド人だということはナオトにもわかった。戸口の外で、大きな生き物が聞き覚えのない鳴き声を上げている。
 ヨーゼフは、初めは文字通りに幻かと思った。それはなんと、四十年前にジュンガル盆地のコシの国で別れた従弟いとこのセターレだった。昔、虫の害にやられたとナオトに語ったあのハミルの西隣りにあるオアシス国がコシだ。
 二人は腕を叩いて抱き合うと、長いときを掛けて昔の間柄あいだがらに戻るための儀式のようなことをした。その後に、ナオトを引き合わせてくれた。
「セターレだ。こっちは、乳と蜜の流れる国から来たナオトだ」
「なんだって……?」
 サルトポウの驚いたさまを無視して、普通の会話ならばこなせるようになったナオトがソグド語でいた。
「セターレとは星という意味ではないですか?」
 セターレは二度驚き、次に笑った。
「その通りだ。いい名だろ?」
 勧められて腰を下ろしたセターレの歳は五十を過ぎているように見える。しかし、動きが若々しく、ナオトという名もすぐに覚えたようだった。それでも、気を許すような気配は見せない。
 ――やはり根っからのサルトポウだ、
 と、カケルの面影と重ね合わせながら、ナオトはそう思った。

 二人の会話はほとんど理解できなかった。
 ときどき、水とか塩とか塩袋ナマクダンとか、あるいはラクダとか馬とか隊商カールヴァーンとか、知っている言葉が出てきて、なるほど、いつもヨーゼフが話しているソグド語なのだとわかった。知っている地名もあった。
 意味は別として、セターレの声と話しぶりはヨーゼフよりもよほどはっきりとしていて、ナオトには聞き取りやすかった。
 何を話しているか詳しくはわからないのだが、しかしそれでいい。それでも、二人のやり取りは見ていて面白かった。第一に、口で交わすはずの会話なのに手を使う。首を振る。しかも何度も繰り返して。足を踏むことさえある。傍らにいて笑い出すことこそしなかったが、ソグド人の会話とはこういうものなのかと、ひとり感心した。
 人の名前と思うものもあった。まず、ナオト。何かいろいろとセターレが訊き出しているらしい。それにダーリオ。ヨーゼフの弟だ。これは何度も出てきた。あとは、おそらく人の名だろうという言葉が五つ、六つ。
 そのうちに、気持ちが落ち着いてきたものか、セターレがナオトの方を向いて、どこかの耳慣れない言葉を口にした。ヨーゼフが何かを語ったためだろう、隣りに座るナオトの左腕をぽんぽんと叩いた。
 ナオトは身動きせず、軽くあごを引いた。それでいいというように笑いながら二、三度頷いて、セターレはヨーゼフとの会話に戻った。
 ナオトはじっと、無作法なほどに、セターレの口の動きを見ていた。
 ――なるほど、こういうふうに話すのか……。

 翌日、再会を約束してセターレがヨーゼフの家を発つそのときまで、ソグド語の会話はずっと続いた。折りを見て二人は、ナオトにもわかりそうな言葉だけを使って話の中身をかいつまんで話した。本当に聞き取れたかは心許こころもとなかったけれど、それは驚くべきものだった。

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