見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[103]ザヤの一声

第5章 モンゴル高原
第3節 ザヤがナオトを救う
 
[103] ■2話 ザヤの一声
 そのとき、ゲルの戸口の内側に掛けた織物おりものの覆いをめくって、年若い女が入ってきた。メナヒムの娘だった。大事な話の最中さなかなので外に出ていろと、父親が大きく手を振った。しかし、娘は動こうとしない。出ていく代わりに、よく通る大きな声で言った。
「あの男は、わたしたちの知らない面白い話をいろいろと聞かせてくれる」
 それを境に、その場の空気が変わった。みなが、大昔から部族に伝わるおきてを思い出したのだ。それは、言葉にしてしまえば簡単な「客人をもてなせゾチロムトゴエ」という掟だった。「客人は父のように敬え」とも言う。

 娘の名はマラルザヤと言った。鹿しかのようなザヤという意味だ。これを縮めて、みなはザヤと呼んだ。部族の未婚の男たちは誰もが、この色白でふくよかな美しい娘をいつかは自分のゲルに迎えたいと、内心思っていた。そのことを一番よく知っていたのは、いま、このゲル内での話し合いを仕切っているザヤの父メナヒムだった。
 ――みなが皆、息子を持っている。この中に、ザヤの言い分にあらがう者はおるまい……。
客人ゾチロムをもてなす。異存のある者はあるか?」
「……」
「……」
「そうか。みながそうしようと言うのであれば、いいだろう。一度、そのナオトとやらの話を聞いてみようではないか」
 まだ、みなに伝えるわけにはいかないが、とメナヒムは考えた。
 ――いま、東方に道を開いて海のそばにいるフヨの民から食糧や武器を買い入れようとしている。すでにはじめたのかもしれない。そのような折りも折り、なんと、そのフヨのなお先のヒダカのクニから海を越えて、男が一人、この匈奴の地までわたってきたという。しかも、その男を最初に見つけたのは、あろうことかこのわしだ。
 そのようなことがたまたま起きるはずがない。これにはきっと何か裏がある。それが何なのか、そのナオトという男から探り出さなくてはならない……。
 こうして、しばらくは、ナオトの命はメナヒムに預けられることになった。
 一方、ゲルの外に出たザヤは心の中で思った。
 ――ナオトはわたしが救った。

 この冬の牧地でのメナヒム一家の住まいは、小高い丘の緩やかな南斜面の中ほどにある小さな岩の手前に張った、やや大ぶりのゲルだった。岩の陰に回り込んで少し上ると、眼下に広がる雄大な草原が見渡せる。その先にある東の湖ダライ・ノール――いまの、フルン・ノール――の西側一帯は、ついこの間まで四か月間を過ごした夏の牧地だ。
 この冬の牧地には、次の初夏までとどまる。
 北に住む匈奴は背の高い荷車に載せた住まいに寝泊まりし、食事もその上でしている。しかし、メナヒムの一族は違う。早くからゲルに住むように生活の仕方を変えた。
 その理由の一つがこの見晴らしのよさだった。それは、当然、遠くまで見えて気分がいいというだけでなく、敵の来襲への備えという意味をももっていた。何といってもメナヒムは、左賢王の守備隊長なのだ。
 ナオトはまだ、そのメナヒムのゲルには招き入れられたことがない。
 その東側に少し下ったところに、メナヒムがおいのエレグゼンに与えた小さめのゲルがあった。エレグゼンはいつも、その前で一人で食事をとった。近頃、その傍らにナオトが加わった。
 食事といっても、あの最初の日に出されたものと変わらず、多くが畜獣の乳を加工した似通った味の白っぽい食べ物で、ナオトの目にはとても質素に映った。
 ザヤや部族の女が運んでくるたびに、エレグゼンはにこやかに一言声を掛けてそれを受け取る。自分で用意することもある。しかも、日に何度も食事をとった。ナオトもそれに従った。
 エレグゼンが命じられたことは明白だった。
「とにかくナオトをもてなして、何でもいいから話をしろ。お前のソグド語を使って、訊き出したことは、使った言葉そのままにわしに話せ」

 あの部族の寄り合いの後、ナオトには古い叩き布を使った小さなゲルが割り当てられた。寝るのはいつもそこだった。エレグゼンのゲルから二十歩東に行った平らな土地で、下の方から微かに水の瀬音が聞こえてくる。ザヤを初めて見たあの小川だ。
 下りて行くときれいな水が流れていて、石と木を並べた水場が設けてある。ナオトは毎朝、ここで顔を洗い、口を漱いだ。木をったたらいと伸び縮みする水汲み袋とが貸し与えられ、川水を汲んで湯を沸かす。夕べには腕や手足を洗うが、日中に川で体を洗うことはもうない。
 このところナオトは、エレグゼンと話をする以外に、一日何をするということもなく過ごしている。日が暮れるとゲルに戻っていつもの味気ない食事を済ませ、ヒツジの毛皮を脇に置き、薪に頭をのせて寝る。その日に何が起きようとも、ナオトは横になるとすぐにいびき一つかかずに眠った。
 もっとも、ナオトの前で何かが起きるということはいままではなかった。
 ただ、その新しいゲルに入った最初の夜は別だった。珍しくすぐに寝付けなかったナオトは、天窓をじっと見ていた。
 ――ザヤはどこか姉のカエデに似た横顔をしている。
 初めて会ったときにそう感じた。背格好も同じだった。女にしては少し大きすぎる。
 あの日、川辺の水場で目を合わせて以来ずっと、ザヤのナオトに接する態度はあからさまだった。ナオトは自分のものだと、勝手に決め付けているようだった。
 ナオトは知らなかったが、ザヤは、
 ――ナオトの命を救ったのは私だ、
 と、そう思っていた。傷ついた馬でも、鹿でも、その命を救えば、それは救った者のものだ。戦場で亡くなった者の遺骸を荷車に載せて連れ戻ったら、亡くなった者の家にあるものはすべてその者が支配する。それが匈奴のおきてだった。
 ――それと同じ……。ナオトは私のものだ。

第3節3話[104]へ
前の話[102]に戻る

目次とあらすじへ