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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[161]夏の牧地に無事に戻る

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第11節 沙漠ゴビ

[161] ■3話 遠征58日目 夏の牧地に無事に戻る    【BC91年7月初】
 オンギン川の砂の中州を越えて中央沙漠ドゥンドゴビに入ったところでメナヒムたちと再会した。メナヒムたち三騎はずいぶん前に牧地に戻り、エレグゼンたち二騎は南回りで遅くなると踏んで、待ち受けていた。左賢王にはすでに第一報を入れてある。
 近づく二人にだいぶ前から気付いていた三人は、長い間待ったはずなのに、無事を喜ぶでも、遅れたのを怒るでもなく、また、エレグゼンの姿を無様ぶざまだと笑うこともせずに、ただただ荷物の多さに驚き、あきれていた。
 ラクダが一頭増えている。その背が夏の終わりにゲルを移動するときのように荷物で一杯で、どこで手に入れたのかハンのぼりまで立てている。二人が被っているのは、あの、背と両頬ほほに布を垂らした滑稽なペルシャ人の尖んがり帽子ではないか。
 いまではそういうおのれの姿に慣れてしまったのか、エレグゼンは平然と、
「矢を受けたような素振そぶりを見せて後ろに退く。害意がないような姿でたくさんの荷物をゆっくりと運びながら実は先を急ぐ。どちらも同じ計略だ。これでも、途中、いくつも捨ててきた」
 などと、うそぶいた。

 オヴス湖で二隊に別れてからおよそ一月ひとつきを掛けて、エレグゼンたちは危険を避けながら夏の牧地へと無事に辿り着いた。以前、育ったヒツジは鳴かないと聞いていたのに、戻ってみるとヒツジの鳴き声が、朝夕、うるさいほどだった。それに、どのヒツジもここを発つ前に比べてずいぶんと太っている。
 シルは疲れ切っていた。くびを下げ、尻尾しっぽを垂らして体全体に張りがない。昨夜は、いつも通りに体を擦ってやっている間は立っていたが、そのあと、地面に横顔を付けて横になった。シルがこうした姿で休むのを見るのはもう何度目かだった。最後の数日間、十分な草がなかったためだろう。
 エレグゼンが「休ませなければだめだな」と言い、バトゥに話を聞きに行って、言われた通りに餌をやり、世話をした。

 ザヤが食べきれないほどの食事を用意してくれた。
 春の祭りのときにいなかったからと、毎年、祭りの日に食べる新しい肉で作ったスープを持ってきた。それを、いつも使っているヒツジの頭の骨をけずった器の代わりにナオトが焼いた椀に盛り、祝いの日だからと、大事にしている大皿にヒツジの乳のアウールルとクルードをきれいに盛り付けてきたのに、二人とも全く気付いていない。
 ヒダカ言葉で「ありがとう」と一言つぶやくようにして受け取ると、それをうわの空で口に運びながらナオトは、明日からの手順を考えていた。
 いつもと違ってザヤはすぐには立ち去らず、ゲルの入り口に立ってナオトと従兄いとこの様子をじっと見ている。
 ナオトたちは二月ふたつき営地を離れ、そのかん生死いきしにすらわからなかった。いま、ようやく無事に戻ってきて、ここにいる。立ったままのザヤは、なお二人の様子をもの問いたげに見つめていたが、意地を張って、座ろうとも、先に口を開こうともしない。
 食べ終わったナオトは、ゲルに運び入れた荷物をさっさと解きはじめた。すべては鉄を作る準備だった。買ってきた物を自分なりの順番に並べると、あとはそれらの品々の前に胡坐あぐらに座り、一人何かを考えはじめた。
 ――それほどに気を取られる何があるというの?
 ザヤは、なおも立ち尽くしている。
 ナオトのゲルの奥に座り込んで、珍しくがつがつとあぶった肉を頬張っていたエレグゼンが、入り口から注ぐ鋭い視線にふと我れを取り戻した。「おお、これっ」と言ってあぶらで汚れた手指を腕でぬぐい、解いた荷物の隅に見えた緑の石の首飾りを引っ張り出して、ザヤの足元に放ってよこした。「こんなもの」という様子のザヤに、一言、
「ザヤにと、ハミルのバザールでナオトが選んだ。烏孫ウソンの石らしい」
 と声を掛けて、すぐに盛り付けた皿に向き直り、白い汁をすすった。

 誰に命じられたわけでもない。ただ、どうしてもやってみたかった。幾日も馬の背で揺られながら考えたあれやこれやを、道具を前にしてどうにかまとめようとしていた。だから周りが目に入らない。誰とも口をきこうとしない。それどころではなかったのだ。
 エレグゼンは、そういうナオトを何度も見てきた。だからそれから数日は、牧場まきばに馬の様子を見に行ったり、自分のゲルの中でうとうとしたり、気晴らしに狩りに出かけ、あぶったキジのももをナオトに放ってくるなどするだけで、ナオトと一緒に過ごそうとはしなかった。
 ただ、あるとき一つ気付いたことがあって、ハミルで求めておいたヒツジの革を薄くそいで磨いたものを数枚、ナオトのゲルまで持って行って渡した。
「ナオト、これを使え」
 そこに寝転がって天井の煙穴をにらんでいたナオトが起き上がり、「バヤルララーありがとう」と言って受け取った。フヨの入り江でヨーゼフがくれた地図と同じヒツジの革だったが、それよりもずっと薄い。
 しばらくその革をいじっていたが、竹炭を取り出してその上に絵のようなものを書きはじめた。そして、まだ去らずにいるエレグゼンを振り返り、
れらがトゥバで見た囲炉裏はこんなかまえだったか?」
 と、その薄革を滑らせてきた。

 そうしてナオトは、その後何日もゲルの中で過ごした。日が暮れ掛けるとゲルからもそもそと這い出してきては牧場まきばまで行ってシルを呼び、乗ってもいないのにいつも通りに体を隅々まで擦ってやった。
 シルの体は、牧地に戻った頃に比べてだいぶ大きくなったように見えた。バトゥが用意してくれた餌をよく食したのだろう。軽く叩いてやると小さく唸って頸を上げ、目を細める。その目をじっと覗き込むと、ナオトは「また明日な」と言ってゲルに戻った。
 その様子を、ザヤが離れたところで見ていた。
 ゴウのひづめを手入れしていたエレグゼンがそれに気付き、近寄って声を掛けた。
「ザヤ、前にどうやってナオトを見つけたと訊かれただろう。場所のことは東の林と答えたが、なぜあのようなところで出会ったのか、その理由わけは吾れにもわからなかった。しかし、いまはわかる。
 トゥバから帰る途中、吾れたちは、ションホルがやられた場所のすぐ近くを通った。カルリク・タグ山の東だ……。そのとき、吾れは悟った。ションホルがいなくなったから、ナオトが来たのだ」
 ザヤは、エレグゼンの目をしばらく見つめ、そして黙って立ち去った。

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