『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[107]友の死
第5章 モンゴル高原
第4節 エレグゼンが負った槍の傷
[107] ■3話 友の死
そのときたまたま、南の山地を越えてトゥルクレ城に迫る漢軍の騎兵部隊があった。四人の匈奴の若者は、もちろん、知る由もない。
およそ九十騎からなるこの部隊は、酒泉を発して西に向かった後に二手に分かれ、匈奴に悟られないようにと動静を隠して、ハミルの前山まで進んで落ち合った。この高い山の東の麓を北に回り込み、今夕にはトゥルクレの土城を襲うという手はずだった。
騎馬隊長は、「この時期、牧地の移動を終えたばかりの匈奴の統制は乱れている」と聞かされていた。
――しばらく匈奴との争いがない。戦功を挙げて恩賞を得ようにも、戦さがないのではどうしようもない。ならば、酔った城兵の寝込みを襲って、一手柄ものにしよう……、
と、いまは漢に属しているいろいろな出自の騎兵たちを束ねる隊長は考えた。
――それに、あの元匈奴によれば、城内には女も値打ちのある物も数多いという……。
一騎打ちであれば、匈奴兵にとって、統制の取れていない漢の寄せ集めの騎兵など恐れるに足らない。だが、百騎に迫る兵数は、たとえ場数を踏んだ匈奴の十人隊であっても決して侮ってはならない脅威だった。ましてや、経験の浅いエレグゼンたちの手に負える相手ではなかった。
エレグゼンたち四騎は下馬して、「音を立てるな」などとかえって辺りに声を響かせながら、すぐその先に見えているトゥルクレの城門に向かって暢気に馬を引いていた。
本来ならば、漢と境を接する右賢王の城兵に急を告げるのに絶好の位置にいた。普段のエレグゼンならば、ずいぶん前に「耳を澄ませ」と仲間に注意を促し、蹄の音から冷静に騎数を数えていただろう。
四人は、しかし、いまはそれどころではなかった。遠路を馬で渉り、イリの女の脂の匂いがそこまで漂ってくるような近場まで、ようやくやって来た。しかも、日はもう沈み掛けている。土城の門はすぐにも閉じられようとしていた。急がなければならない。四人の心は、その一事で占められていた。
そのとき、漢の九十余騎が左後方の薄暗がりの中から轟然と表れた。疾駆する馬は速い。勢い込んだ人馬のうなり声が聞こえ、「なんだっ?」と思ったときには槍を構えた漢の騎兵がすぐ後ろまで迫っていた。
ションホルは先頭の漢兵の槍で背中を突かれ、その直後に、続く騎兵の剣尖で命を落とした。最期の絶叫が辺りを覆う。
残る二人も、背負う剣を抜く間もなく漢兵に屠られた。四人のうちの誰も、戦さならば欠かさずに着る革製の短甲を身に付けていなかった。そのため、至近で射られた矢も槍も、防ぐものなく骨まで達した。
エレグゼンは、かろうじて第一撃を交わしたものの、その兵を追おうとするところに後ろから第二撃を浴び、槍の穂先で左肩にひどい傷を負った。
咄嗟に体を翻して正対し、手鉾で馬の右前足を払った。馬は一声叫んで前のめりに倒れ、敵兵は驚く間もなく落馬した。
手鉾を返して、漢兵の兜飾りの根本に振り下ろして頭鉢をかち割ると、エレグゼンは右脇に控えていた愛馬に飛び乗り、ションホルを殺した先頭を行く漢の二兵に迫った。敵の矢を数本背中に受けたが、急所は外れた。
城門は、早、閉じている。しかし、土塀は低いと見た漢兵は馬の背に乗り、数を恃みに、脚を掛けて塀を乗り越えようとしていた。
エレグゼンは瞬時に右腰の弓袋に手を延ばして弓と矢とを引き抜くと、二本、立て続けに放った。右肘が勝手に動いた。
そのうちの一矢が先頭の男の首筋を射抜いた。「何事っ」と振り返った二番手には、黒毛をぶつけざまに飛び掛かって手鉾で左手首を斬り落とし、すぐに返して、驚く顔に横ざまに斬りつけた。生き死にを確かめるまでもない手ごたえがあった。
先頭の兵にはまだ息があった。馬を降りて、その血に濡れた後ろ髪を兜ごと掴んだエレグゼンは、ものすごい形相で振り返った。後ろに続く数十騎の漢兵は、瞬く間に指揮する二騎を失って、あっけにとられて馬上にある。
「われは、匈奴のエレグゼンだ。いま、友ションホルの仇を取る。漢の雑兵ども、とくと見よ」
大音声で叫ぶと、手鉾を三振りして漢兵の頭部を斬り取り、隊長の印の赤い羽根飾りをひっ掴んで勢いよく頭上に振り上げた。血を浴びた全身に痺れるような感覚が走る。控える漢兵数十騎は、息を呑んで見守っている。が、すぐに気を取り直したか、意味不明の声を口々に発しながら、我れ先にと列を乱して遁走した。
どうなることかと城門の櫓の上から見守っていた衛兵どもが、エレグゼンを讃えて一斉に勝ち鬨を上げた。
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