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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[168]ニンシャ人の鍛冶について聞く

第7章 鉄剣作りに挑む
第3節 メナヒムの昔語り

[168] ■1話 ニンシャ人の鍛冶について聞く
 牧地を替えれば、草が変わる。離れている間に伸びた草には、この時季、実を付けるものがある。それを求めてヒツジの群れが動き回り、んでは四方に散らばる。
 牧人まきびとが群れの後ろを古い叩き布や皮で煽りながらついて歩き、はぐれたヒツジを馬に乗って探しては群れに戻す。遠くに離れ過ぎたり、群れがいくつにも分かれたりしそうになると、犬が走って行って先頭のヒツジの向きを変え、まるで言うことを聞けというように吠える。
 こうして、ヒツジの群れを追う牧人の一日はゆったりと過ぎる。
 ついこの間までいた夏の牧地に向けてケルレン川を渡ろうとするヒツジの群れがあった。気分を変えようと、久しぶりにエレグゼンとともに草原に出たナオトが目ざとく見つけて指差すと、
「まあ、みていろ」
 と、エレグゼンが言う。すると、見覚えのある白い犬が先回りして、吠えもせずに先頭のヒツジの進む先をこちら向きに変えた。遅れて後を追った二匹が群れの左右に分かれて走る。
「あれはいい犬だ。この原の匂いと地形を知り尽くしていて、いつもああやってヒツジの群れを導く。ただ、どうしても言うことを聞かないヒツジは脚に嚙みついてでも従わせようとするので、いいヒツジを持つ者にとってはちょっと怖い」
「あれはメナヒムの犬ではないか?」
 他の二匹とともに、群れを囲むようにして草地に腰を落とした白い犬を見ながらナオトが訊いた。
「ああ、そうだ。ずっと、ザヤが育てている」
「……」
 
 冬の牧地に移って来て二日目の夜、ゲルで横になったナオトは、いまさらながら、大変なことになったとしみじみ感じていた。
 ――鉄はできる。しかし、鋼作りとなるとわからないことばかりだ。あのトゥバで見せてもらった鋼の剣までどうやってもっていけばいいものか……。
 赤く熱した塊が、鎚の一打でばらばらに砕け散る光景が頭から離れなかった。違うやり方で焼いてはみたものの、塊の欠片はどれも、熱して強く打つと砕けた。
 ――トゥバの鉄窯でも、鎚で打ったときに何かが弾け飛ぶということはあった。しかし、あのように砕け散ることはなかった……。
 この先、どこから手を付けるかと迷ったナオトは、ここは手を休め、まずじっくり考えてみることだと決めた。
 翌朝。草が生い茂っている牧地に移ったためか、いつもは聞こえないヒツジの鳴き声がした。気分よく目覚めたナオトは、口を漱いだ後にエレグゼンのゲルの前まで行き、呼んだ。
「メナヒムに話を聞かせてくれるように頼んでみてくれないか」
 トゥバで二十五年ぶりに再会したというニンシャの鍛冶かじのことを聞かせて欲しかった。
 ――もの作りは、どこか通じるところがある。ニンシャについて聞けば、何か、鋼作りに役立つかもしれない。
 窯を置く場所を山の端にと決めるときにメナヒムの考えをいた。
 しかし、そのあとのことはまだ何も話していない。そしていまや、匈奴の上の人々の考えを訊かなければこの先には進めないというところまで来た。どうしてもメナヒムに考えを聞かせてもらわなければならない。

 牧地の移動はまだ続いている。いまは忙しいからと断られるかもしれないと思いつつ頼んでみたが、意外にも、メナヒムは快く引き受けてくれた。それどころか、ナオトが声を掛けるのをむしろ待っていたかのようだったと後にエレグゼンが言った。
 すぐにもはじめようとなり、「少し待て」と言ってメナヒムがゲルに半身を入れた。妻に向かってザヤとバフティヤールをゲルに呼び寄せてくれるように頼むと、少し離れたところに立つナオトに向かって問うた。
「みなに聞いてもらうが、構わないか?」
 もとよりナオトに否応いやおうはない。「はい」と短く応じた。

 後に、ザヤが言った。
「父があんなに長く話すのは、生まれて初めて見た」
 ザヤの母親も同じ感想をエレグゼンに語ったという。

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